公卿類別譜
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羽林家
(四条)
羽林家家系別分類表
四条
【しじょう】
本姓:藤原氏。華族類別録第四十五類。
旧家
外様
一条家門流
藤原北家魚名(末茂)流。中御門中納言藤原家成の子隆季を祖とする。
四条家一門の堂上家に油小路、櫛笥、西大路、八条、山科、鷲尾がある。
明治31(1898)年7月20日には、分家の隆平が男爵を授爵する
〔現代華族譜要〕
。
家紋
田字草。
家業
料理包丁・笙。
江戸期石高
180石。明治2(1869)年6月、隆謌が永世禄三百石を賜る
(戦功鳥羽伏見及奥羽役賞典表)
。 隆謌の子隆平(分家。男爵)も永世禄二百石を賜る。
明治期爵位
伯爵-侯爵。
明治17(1884)年7月7日隆謌が伯爵を授爵
〔現代華族譜要〕
。
明治24(1891)年4月23日隆謌が侯爵を陞爵
〔現代華族譜要〕
。
菩提所
浄善寺。青山墓地
〔最新華族名鑑明治41年12月調〕
。
居所
内丸太町寺町西入。
四条家庶流大綱略系図
四条家系図
房前[北家祖]
真楯
⇒
嫡流
清河
魚名
末茂
⇒
⇒
総継
直道
連茂
佐忠
⇒
⇒
時明
頼任
隆経
顕季
⇒
⇒
家保
家成
隆季
⇒
実教
⇒[
山科
]
隆季以前の系図は、
魚名三男末茂
系図を参照。
⇒
隆房
隆衡
⇒
隆宗
隆恵
(延暦寺)
〔
冷泉
〕
隆嗣
隆時
隆有
(※系図纂要作隆任男)
隆任
(常陸介。従四位下〔家譜〕)
隆審
(家譜作隆番。系図纂要作隆香。
仁和寺。法印)
隆重
(従五位下。母同。早世)
隆仲
⇒〔
大宮
〕
隆憲
(従五位下。侍従。早世)
秀房
(安房守。正五位下。
本名寂因、或寂円。母
高階泰経
女)
隆弁
(園城寺長吏。如意寺。
文永2年11月8日(ユリウス暦:1265年12月16日)
任大僧正〔諸門跡譜〕。
弘安6年8月15日(ユリウス暦:1283年9月7日)
寂〔諸門跡譜〕)
女子
(
松殿師家
室。基嗣母)
女子
女子
(藤原基範室)
※女院記等によれば、
玄輝門院の母は隆房女従二位臧子。
保実
(従五位下。散位。母
藤原通憲
女。早世)
隆保
隆俊
*1
隆朝
*2
隆名
(房名嗣)
隆重
(安芸守。従五位上)
隆玄
(延暦寺。少僧都)
隆性
(延暦寺。或隆雅男同人)
隆有
(園城寺。或隆雅男同人)
隆禅
(延暦寺。或隆雅男)
隆雅
家雅
*3
隆氏
隆行
(或隆清子同人)
隆有
(或隆保子同人)
隆性
(延暦寺。檀那院。法印。
或隆保子同人)
隆清
*4
隆行
(従五位下。或隆雅子同人)
慶隆
(興福寺。法眼)
隆円
(園城寺。法印)
良雲
(延暦寺。法印)
円玄
(興福寺別当。東北院。
興福寺寺務次第・興福寺別当次第に
よれば、安元元〔1175〕年生。
建長2年11月28日(ユリウス暦:
1250年12月22日)入滅。
興福寺院家伝によれば、
文治元〔1185〕年生。
建長3年11月28日(ユリウス暦:1252年1月10日)化
〔北大路家譜此同〕)
女子
(藤原兼房室。
九条兼良
母)
女子
(
藤原高能
室)
女子
(
藤原泰通
室。経通母)
女子
(藤原家光室)
*1
隆俊 中務少輔。伯耆守。家譜作右兵衛佐正三位。
*2
隆朝 正四位下。中務少輔。家譜作侍従参議正三位。
*3
家雅 従五位下。周防守。
*4
隆清 従五位上。侍従。母少納言藤原通憲女。
⇒
隆綱
隆行
隆康
隆氏
*1
女子
(
勧修寺経顕
母。*或隆康女)
隆久
隆定
隆政
隆有
隆持
〔⇒
西大路
〕
隆光
(兵衛佐従五位上)
隆邦
(左中将。従四位上)
隆蔭[
油小路
祖]
季政
(民部少輔。正五位下)
隆暁
(猶子。延暦寺。僧正。蓮華院)
隆寿
(延暦寺。宇治。大僧正。横川長吏)
女子
(従三位)
隆勝
(醍醐寺。報恩院。僧正。号水本。
釈迦院〔系図纂要〕。文永元(1264)年生。
正和3年11月26日(ユリウス暦:1315年1月2日)入滅〔醍醐
報恩院血脈〕)
隆静
(延暦寺。威徳院。僧正。母同隆康)
隆深
(延暦寺。法印)
隆親
隆顕
隆任
(家譜无)
隆実
*2
隆資
隆量
(従四位上。左少将。
元徳3/元弘元(1331)年卒)
隆重
(或隆童、隆定。左少将。
従四位上)
隆任
(木工頭。従四位下)
隆俊
(候南朝)
女子
(
西園寺実俊
妾。公永母)
隆保
隆清
(左馬頭。正四位下)
女子
(
吉田定房
室)
房名
房衡
隆通
隆名
隆宗
隆郷
隆直
⇒
女子
(今子。典侍。従三位。
後円融天皇
妃。
道朝
(或道明)
親王母)
女子
(北山院女房対御方)
隆冬
房成
季衡
隆良
[
鷲尾
祖]
隆任
(興福寺)
隆遍
(興福寺別当。大僧正。修南院。証誠)
女子
(従三位)
女子
(従一位識子〔系図纂要作議子〕。号鷲尾一品)
隆盛
隆教
隆重
*3
隆冬
隆名
隆宣
*4
隆基
隆快
(仁和寺。香隆院。安祥寺。法印。権僧正〔系図纂要〕。
覚教僧正付法〔仁和寺諸院家記〕。某年3月16日寂〔諸門跡譜〕)
隆助
(仁和寺。僧正。法眼。二長者。相応院〔仁和寺諸院家記・系図纂要〕。
号鳴瀧僧正。号大納言僧正〔仁和寺諸院家記〕。
系図纂要〕。建保元(1213)年生〔仁和寺諸院家記・系図纂要〕。
弘安元年7月29日(ユリウス暦:1278年8月18日)寂〔仁和寺諸院家記・系図纂要〕)
良承
(或良乗)
女子
(貞子。准三宮〔女院小伝〕。従一位〔女院小伝・女院記〕。二品〔系図纂要〕。
西園寺実氏
室。大宮院・東二条院母。号今林准后〔系図纂要〕)
女子
(従一位灑子〔二条家譜による。系図纂要此同。公卿補任作従二位儷子〕。
二条良実
室。道良母)
女子
(大納言典侍。四条院女房)
*1
隆氏 従四位上、或正四位下。左少将、或右少将。
*2
隆実 正四位下。左〔家譜作右〕中将。早世。
*3
隆重 或隆名子。
*4
隆宣 左馬頭。正四位下。
⇒
隆盛
隆尚
隆量
隆熈
(右少将。従四位上。母
吉田兼名
女)
隆香
(従五位下。母同。早世)
隆永
隆重
隆益
⇒
女子
女子
(心性院)
隆賢
(母同。法眼。恵命院)
隆源
(尊卑分脈・系図纂要作隆深。
母同。法眼。報恩院)
※1
隆慶
(母同。東大寺心性院。法眼)
女子
(大慈院比丘。慶松庵)
女子
(三時知恩院比丘)
女子
(東坊城長淳妾但離別)
女子
(慈敬寺法印政清妻)
女子
(四条隆永室。隆重母)
房任
(猶子)
⇒〔
西川
〕
※1 名前は四条家譜に従った。醍醐報恩院血脈には、俗姓四条大納言隆家息の隆源大僧正が記載されているが、 康永元/興国3(1342)年生。応永32年3月29日(ユリウス暦:1425年4月17日)入滅とあるので、世代的に一致しない。
⇒
隆昌
(実
上冷泉為益
男。元家賢。
⇒
左中将。正四位下。弘治2(1556)年生。
慶長18年5月12日(1613年6月29日)卒。
快養院観誉隆昌〔系図纂要〕)
⇒
隆術
⇒
女子
(
藤谷為賢
室。為条母)
女子
(本多美濃守室)
隆憲〔
櫛笥
〕
※2
※2 櫛笥祖隆憲は、櫛笥家譜によると隆益の二男(実正親町三条公兄孫)となっている〔四条家譜同〕。 隆昌の子としたのは、知譜拙記・系図纂要(実松陰居士男。公兄孫)の表記に従った。
⇒
隆音
隆安
隆文
⇒
女子
女子
(隆安妻)
女子
(実松平清匡女。隆術室の妹。
*系図纂要松平〔奥平・武蔵忍〕系図による)
⇒
隆叙
隆師
⇒
女子
(町子。早世)
女子
(唯念寺室)
隆良
(実
山科頼言
男。
西大路隆共
朝臣嗣)
⇒
隆房
(本名隆孝。母家女房。従四位上。
天明元年6月6日(1781年7月26日)生。
享和元年2月28日(1801年4月11日)卒)
女子
(早世)
男子
(早世)
隆生
男子
(早世)
女子
(早世)
隆美
(母家女房。正五位下。
文化12年3月10日
(1815年4月19日)生。
天保5年6月14日
(1834年7月20日)卒)
隆謌
(母家女房。隆美嗣。
⇒
文政11年9月9日
(1828年10月17日)生。
天保5年8月28日
(1834年9月30日)叙従五位下。
天保12年12月14日
(1842年1月25日)元服。
聴昇殿。同日叙従五位上。
天保15年正月5日
(1844年2月22日)叙正五位下。
文久2年10月16日
(1862年12月7日)任侍従。
同年11月4日叙従四位下。
文久3年8月16日
(1863年9月28日)叙従四位上。
現代華族譜要によれば、
明治31(1898)年11月卒。
夫人
黒田長溥
養女、実奥平昌高女。
夫人中井好馬長女春子)
大宮
〔隆仲裔〕
隆仲
隆兼
隆茂
*1
隆賢
⇒
顕成
顕茂
*1
隆茂 正四位下。左中将。
⇒
隆俊
隆通
隆清
四条家公卿一覧
藤原 隆季
[ 大治2(1127)年 〜 元暦2年正月11日(ユリウス暦:1185年2月12日) ]
家成一男。母加賀守高階宗章女。号四条、又号大宮。
保元3年11月26日(ユリウス暦:1158年12月18日)叙従三位。
寿永元(養和2)年5月24日(ユリウス暦:1182年6月26日)出家。
正二位・権大納言。
※没年は諸家知譜拙記によるものだが、没年齢が69歳となっている。 これに従えば、生年は永久5(1117)年ということになる。家譜は大治2(1127)年とし、嘉承2(1107)年トモ永久5(1117)年トモとある。
藤原 隆房
[ 久安4(1148)年 〜 建永元年6月23日(ユリウス暦:1206年7月30日) ]
隆季男。母藤原忠隆女。法名・寂恵。号冷泉。
寿永2年12月10日(ユリウス暦:1184年1月24日)任参議。
建永元年6月23日(ユリウス暦:1206年7月30日)出家。
正二位・権大納言。
藤原 隆保
[ 久安6(1150)年 〜 ? ]
隆季二男。母藤原忠隆女。
建久8年3月20日(ユリウス暦:1197年4月9日)叙従三位。
建保4年9月13日(ユリウス暦:1216年10月25日)出家。
正三位・非参議。
四条 隆衡
(本名長雅)
[ 承安2(1172)年 〜 建長6年10月2日(ユリウス暦:1254年11月13日) ]
隆房一男。母
平清盛
女。号・鷲尾大納言。金仙院
〔系図纂要〕
。
建仁2年7月23日(ユリウス暦:1202年8月12日)任参議。
嘉禄3(1227)年9月出家。
正二位・権大納言。
藤原 隆雅
[ 生没年不明 ]
隆季三男。母藤原忠隆女。
建仁4年正月5日(ユリウス暦:1204年2月7日)叙従三位。
建永2年4月4日(ユリウス暦:1207年5月2日)出家。
従三位・非参議。
四条 隆仲
[ 寿永2(1183)年 〜 ? ]
隆房四男。母後鳥羽院女房(右衛門佐)。
建保2年正月13日(ユリウス暦:1214年2月24日)叙従三位。
寛喜元年12月21日(ユリウス暦:1230年1月7日)出家。
従三位・非参議。
※家譜によれば、家号大宮。
四条 隆宗
[ 養和元(1181)年 〜 寛喜元年8月21日(ユリウス暦:1229年9月10日) ]
隆房二男。母
平清盛
女。号冷泉
〔家譜〕
。
建保6年正月5日(ユリウス暦:1218年2月1日)叙従三位。
従三位・非参議。
※生年は、国史大系公卿補任の分注が記す異本の没年齢49歳から逆算。原典の没年齢54歳から計算すると、安元2(1176)年生まれ。
四条 隆親
[ 建仁3(1203)年 〜 弘安2年9月6日(ユリウス暦:1279年10月12日) ]
隆衡二男。母坊門信清女。号・四条
〔系図纂要作四条又大宮〕
。
元仁元年12月17日(ユリウス暦:1225年1月27日)任参議。
善勝寺長
〔系図纂要〕
。
正二位・大納言。
※生年は、公卿補任の最終年の条に記載された年齢77歳から逆算。初見時に記載された年齢から計算すると、建仁2(1202)年生まれ。 系図纂要は、建仁2(1202)年生まれとある。また、知譜拙記によれば、没年齢は78歳で、建仁2(1202)年生まれということになる。
四条 隆綱
[ 文治5(1189)年 〜 ? ]
隆衡一男。
文暦2年正月23日(ユリウス暦:1235年2月12日)叙従三位。
建長5(1253)年2月出家。
従二位・非参議。
有職袖中鈔によれば
西大路
家の祖。
※系図纂要によれば、名前は隆経、一作隆綱。
※尊卑分脈によれば、母は家女房高階経仲〔系図纂要作為経〕女。
※尊卑分脈・系図纂要によれば、号四条、又大宮。
四条 隆盛
(本名隆宣)
[ 建暦元(1211)年 〜 建長3年8月13日(ユリウス暦:1251年8月31日) ]
隆衡三男。
嘉禎2年12月18日(ユリウス暦:1237年1月16日)叙従三位。
従三位・非参議。
四条 房名
[ 寛喜元(1229)年 〜 正応元年6月15日(ユリウス暦:1288年7月14日) ]
隆親男。母右兵衛督藤原信家女。
宝治2年12月17日(ユリウス暦:1249年1月2日)叙従三位。
正二位・大納言。
※尊卑分脈によれば、没日は10日。
四条 隆行
[ 元仁元(1224)年 〜 弘安8年11月9日(ユリウス暦:1285年12月6日) ]
隆綱男。法名・行乗。
建長4年12月4日(ユリウス暦:1253年1月5日)任参議。
弘安8年8月6日(ユリウス暦:1285年9月6日)出家。
正二位・権大納言。
※没年は、系図纂要による。
※尊卑分脈によれば、母は源惟義女。
四条 隆兼
[ 生没年不明 ]
隆仲男。
建長5年12月5日(ユリウス暦:1253年12月26日)叙従三位。
文応元(1260)年以降、不見。
従三位・非参議。
四条 隆顕
[ 寛元元(1243)年 〜 ? ]
隆親男。母左馬頭源義氏朝臣女。法名・顕空。
正嘉元年11月10日(ユリウス暦:1257年12月17日)任参議。
建治3年5月4日(ユリウス暦:1277年6月6日)出家。
正二位・権大納言。
四条 隆康
[ 建長元(1249)年 〜 正応4年2月24日(ユリウス暦:1291年3月26日) ]
隆行一男。母宮仕女房(式乾門院播磨局。入道河内女)。
文永11年9月10日(ユリウス暦:1274年10月11日)叙従三位。
正二位・参議。
四条 隆良 ⇒
鷲尾 隆良
〔鷲尾家の祖〕
四条 隆久
[ 生没年不明 ]
隆行二男。
正応5年12月30日(ユリウス暦:1293年2月7日)叙従三位。
嘉暦2(1327)年出家。
正二位・参議。
藤原 顕成
[ ? 〜 永仁4(1296)年 ]
隆兼男。
正応6年6月24日(ユリウス暦:1293年7月29日)叙従三位。
従三位・非参議。
※公卿補任には、父故従三位顕兼卿男とある。
四条 隆賢
[ 生没年不明 ]
正四位下行左近衛権中将隆茂朝臣男。
嘉元3年壬12月17日(ユリウス暦:1306年2月1日)叙従三位。
文保元(1317)年以降、不見。
正三位・非参議。
四条 隆政
[ 文永4(1267)年 〜 正慶元/元弘2年5月12日(ユリウス暦:1332年6月5日) ]
隆行三男。母
高辻長成
女。法名・覚乗。
延慶元年10月12日(ユリウス暦:1308年11月25日)叙従三位。
正和2年10月17日(ユリウス暦:1313年11月6日)出家。
正三位・非参議。
四条 隆名
(本名隆能・隆右)
[ ? 〜 元亨2(1322)年7月 ]
房名次男(実正四位下藤原隆朝朝臣男)。母家女房法眼増賀女。
延慶2年10月15日(ユリウス暦:1309年11月17日)叙従三位。
正三位・非参議。
四条 隆有
(本名隆頼)
[ 正応5(1292)年 〜 嘉暦4年6月27日(ユリウス暦:1329年7月24日) ]
隆政男。母家女房。
文保元年2月5日(ユリウス暦:1317年3月18日)任参議。
正三位・参議。
四条 房衡
[ 弘安7(1284)年 〜 延文2/正平12年6月18日(ユリウス暦:1357年7月5日) ]
房名男。
正和6年正月5日(ユリウス暦:1317年2月16日)叙従三位。
正三位・非参議。
藤原 隆通
[ ? 〜 明徳3/元中9(1392)年 ]
房衡男。
応安6/文中2年10月9日(ユリウス暦:1373年10月25日)叙従三位。
従三位・非参議。
※没年は公卿補任と系図纂要によるものだが、公卿補任には応永2(1395)年条にも名前が記載されていて、月日薨とある。
四条 隆資
[ 正応5(1292)年 〜 観応3/正平7年5月12日(ユリウス暦:1352年6月24日) ]
隆顕男。
嘉暦2年3月24日(ユリウス暦:1327年4月16日)任参議。
正二位・権中納言。
八幡合戦に於いて討死。
※尊卑分脈によれば正四位下左中将隆実の子。
四条 隆持
[ 文保2(1318)年 〜 永徳3/弘和3年3月19日(ユリウス暦:1383年4月22日) ]
隆有男。母伏見院治部卿従三位平信有女。
康永元/興国3年12月21日(ユリウス暦:1343年1月18日)任参議。
正二位・権中納言。
※生年は没年時に記載された年齢から逆算。初見時に記載された年齢から計算すると、1317年生まれ。
四条 隆宗
(本名隆基)
[ ? 〜 延文3/正平13年10月6日(ユリウス暦:1358年11月7日) ]
隆名男。
観応2/正平6年4月16日(ユリウス暦:1351年5月12日)叙従三位。
正三位・非参議。
夜討に遭い死亡。
四条 隆郷
[ 嘉暦元(1326)年 〜 応永17年2月12日(ユリウス暦:1410年3月17日) ]
隆宗男。法名・宗怡。
延文5/正平15年4月17日(ユリウス暦:1360年5月2日)叙従三位。
応永2年6月21日(ユリウス暦:1395年7月8日)出家。
従一位・権大納言。
四条 顕保
〔油小路家〕
藤原 隆冬
[ 生没年不明 ]
隆宗男。
明徳4(1393)年初見、非参議正三位(或去年12月15日叙)。
応永11(1404)年出家。
従二位・非参議。
※出家年は、或応永10(1403)年。
四条 隆直
[ 延文2/正平12(1357)年 〜 永享8(1436)年8月 ]
隆郷男。法名・浄喜。
応永9年10月3日(ユリウス暦:1402年10月29日)叙従三位。
応永30年12月19日(ユリウス暦:1424年1月20日)出家。
正二位・権大納言。
四条 隆盛
[ 応永4(1397)年 〜 寛正7年2月21日(ユリウス暦:1466年3月7日) ]
隆直男。母西大路隆仲女。
応永31年3月6日(ユリウス暦:1424年4月5日)叙従三位。
従一位・権大納言。
四条 隆夏
〔油小路家〕
四条 隆量
(房卿)
[ 永享元(1429)年 〜 文亀3年9月19日(ユリウス暦:1503年10月9日) ]
隆盛男。法名・常泰。
康正元(1455)年叙従三位。
明応7年8月21日(ユリウス暦:1498年9月7日)出家。
従一位・権大納言。
四条 隆永
[ 文明10(1478)年 〜 天文7年4月16日(ユリウス暦:1538年5月14日) ]
隆量男(実中御門宣胤二男)。母吉田兼名女(実母甘露寺親長女典侍朝子)。
永正7年6月27日(ユリウス暦:1510年8月1日)叙従三位。
従一位・権大納言。
四条 隆継
〔油小路家〕
四条 隆重
[ 永正4(1507)年10月 〜 天文8年11月19日(ユリウス暦:1539年12月29日) ]
隆永男。母四条隆量女。
天文5年3月1日(ユリウス暦:1536年3月22日)叙従三位。
従三位・参議。
四条 隆益
[ 享禄4年正月19日(ユリウス暦:1531年2月6日) 〜 永禄10年9月8日(ユリウス暦:1567年10月10日) ]
隆重男。母吉田兼満女。
永禄4年12月5日(ユリウス暦:1562年1月9日)叙従三位。
従三位・参議。
四条 隆術
[ 慶長16年5月25日(1611年7月5日) 〜 正保4年11月28日(1647年12月24日) ]
左中将隆昌朝臣四男。 嶺光院昌誉宗術
〔系図纂要〕
。
寛永17年正月5日(1640年2月26日)叙従三位。
正三位・参議。
四条 隆音
[ 寛永14年3月14日(1637年4月9日) 〜 寛文10年7月22日(1670年9月6日) ]
隆術男。母家女房(
松平清匡
女)。
恵通院影響隆音
〔系図纂要〕
。
寛文8年正月6日(1668年2月17日)叙従三位。
従三位・参議。
四条 隆安
(本名言通・隆盈)
[ 寛文3年5月14日(1663年6月19日) 〜 享保5年正月26日(1720年3月4日) ]
隆音男(実
山科言行
次男)。母家女房。
成等院隆安覚照
〔系図纂要〕
。
元禄5年12月13日(1693年1月18日)叙従三位。
従三位・権中納言。
※諸家知譜拙記によれば、元名は隆元。
公卿補任尻付
寛文3年5月14日(1663年6月19日)誕生。
寛文9年12月18日(1670年2月8日)叙爵(于時言通)。
寛文11年12月3日(1672年1月2日)改隆盈。
同日元服昇殿侍従従五位上。
延宝3年12月27日(1676年2月10日)正五位下。
延宝4年12月23日(1677年1月26日)左少将。
延宝7年正月5日(1679年2月15日)従四位下。
同12月27日左中将。
天和3年正月5日(1683年2月1日)従四位上。
貞享3年正月23日(1686年2月15日)改隆安。
同11月12日兼春宮亮。
貞享4年2月29日(1687年4月11日)正四位下(去年正七分)。
同3月21日止亮。
四条 隆春
(改名隆文)
[ 元禄2年6月22日(1689年8月7日) 〜 元文3年8月9日(1738年9月22日) ]
隆安男。母家女房。
信解院隆文鎮照
〔系図纂要〕
。
享保11年5月16日(1726年6月15日)叙従三位。
正三位・参議。
四条 隆叙
(本名季栄)
[ 享保15年11月9日(1730年12月18日) 〜 享和元年10月22日(1801年11月27日) ]
隆文男(実
正親町公通
末子)。母家女房(実母家女房)。
泰心院高誉隆叙寿山
〔系図纂要〕
。
宝暦5年正月28日(1755年3月10日)叙従三位。
従一位・権大納言。
四条 隆師
[ 宝暦6年8月3日(1756年8月28日) 〜 文化8年2月2日(1811年2月24日) ]
隆叙男。母家女房。泰光院明誉隆師照山
〔系図纂要〕
。
安永6年4月15日(1777年5月21日)叙従三位。
正二位・権大納言。
※中山家譜・華族類別譜によれば、実は
中山栄親
男。
四条 隆生
[ 寛政4年12月1日(1793年1月12日) 〜 安政4年正月13日(1857年2月7日) ]
隆師男(或実者醍醐輝久男)。母家女房。
室仙石久道女
〔仙石家譜〕
。
文政8年5月28日(1825年7月13日)叙従三位。
正二位・権大納言。
七卿落ち 四條隆謌朝臣他
別系
藤原北家高藤流
。
高藤11代孫光雅の子顕俊を祖とする。又号岩蔵。
四条家系図
顕俊までの系図は、
葉室
家系図を参照。
顕俊
頼隆
頼俊
(或顕俊子頼俊同人。正五位下。中宮権大進)
顕成
尊俊
(延暦寺。法印権大僧都)
女子
(大中臣隆世室 離別)
顕基
親俊
親頼
顕家
房高
顕宣
顕任
(或顕仕、顕経。或親成子顕任同人。従四位下。兵部大輔)
親守
(園城寺。法印権大僧都)
光弁
(園城寺。法印権大僧都)
顕恵
(或顕恩。延暦寺。権大僧都)
光顕
(正五位下。刑部大輔)
親成
顕任
(或親頼子顕任同人。従四位下。兵部大輔)
女子
(慈深僧正母)
親朝
藤朝
親嗣
親藤
親忠
(治部大輔。従四位下)
俊朝
(正五位下。少納言。備前守)
忠朝
(右兵佐)
女子
(藤原経氏室)
親定
(正五位下、或正四位下。宮内大輔)
静雅
任親
(園城寺。法印大僧都)
親雲
(延暦寺)
女子
(土御門顕方室。顕実母)
頼俊
(或頼隆子頼俊同人。越中守。中宮権大進)
顕誉
(延暦寺。大僧都)
親賢
(東大寺。阿闍梨)
藤原 顕俊
(本名忠方)
[ 寿永元(1182)年 〜 寛喜元(1229)年6月 ]
光雅二男。母右大弁藤原重方朝臣女。藤原宗頼猶子。
建暦元年9月8日(ユリウス暦:1211年10月16日)任参議。
10月17日正四位下。
建暦2年正月13日(ユリウス暦:1212年2月17日)兼播磨権守。
12月20日従三位。
建保3年8月12日(ユリウス暦:1215年9月7日)兼右兵衛督。
建保4年正月13日(ユリウス暦:1216年2月2日)補検別当。3月28日転左。
建保5年正月28日(ユリウス暦:1217年3月7日)転右衛門督。同日近江権守。
11月8日正三位(松尾北野行幸行事賞)。
建保6年正月13日(ユリウス暦:1218年2月9日)任権中納言。右衛門督使別当如元。
建保7年4月8日(ユリウス暦:1219年5月23日)辞督並別当。
承久2年正月22日(ユリウス暦:1220年2月27日)辞退。
承久4年3月24日(ユリウス暦:1222年5月6日)聴本座。
貞応3年正月23日(ユリウス暦:1224年2月13日)従二位。
嘉禄3年正月5日(ユリウス暦:1227年1月23日)正二位。
嘉禄3年2月18日(ユリウス暦:1227年3月7日)依病出家。
正二位・権中納言。
※本名は、尊卑分脈によれば、光成。
※没日は、尊卑分脈によれば、7月21日。
藤原 頼隆
(本名忠宗)
[ 建仁2(1202)年 〜 ? ]
顕俊一男。母石見守藤原能頼女。
嘉禄3年10月4日(ユリウス暦:1227年11月14日)任参議。
文暦2年8月7日(ユリウス暦:1235年9月20日)出家。
従三位・参議。
藤原 親俊
(本名成俊)
[ 承元元(1207)年 〜 正嘉2年2月7日(ユリウス暦:1258年3月13日) ]
顕俊二男。母藤原実守女。
文暦元年12月21日(ユリウス暦:1235年1月11日)任参議。
建長4年12月8日(ユリウス暦:1253年1月9日)出家。
正二位・権中納言。
※生年は、公卿補任に記載された年齢から逆算。尊卑分脈の出家・没年齢から計算すると、建永元(1206)年生まれ。
※没年は、尊卑分脈による。
藤原 親頼
[ 嘉禄元(1225)年 〜 永仁6年2月10日(ユリウス暦:1298年3月23日) ]
親俊男。母日吉禰宜祝部成茂女。法名円空。
建長4年12月4日(ユリウス暦:1253年1月5日)任参議。
永仁6年2月8日(ユリウス暦:1298年3月21日)出家。
正二位・権中納言。
※没年・法名は、尊卑分脈による。
藤原 親朝
[ 嘉禎2(1236)年 〜 弘安4年12月23日(ユリウス暦:1282年2月3日) ]
親俊二男。母日吉禰宜祝部成茂女。
建治元年12月22日(ユリウス暦:1276年1月9日)任参議。
正三位・参議。
※母名は、尊卑分脈による。
藤原 藤朝
[ 生没年不明 ]
親朝男。
応長元年壬6月9日(ユリウス暦:1311年7月25日)任参議。
正中2(1325)年以降、不見(或正中元年没又は出家)。
正三位・参議。
四条 顕家
(光家)
[ ? 〜 嘉元4年3月10日(ユリウス暦:1306年4月23日) ]
藤原親頼男。母法印棟清女。号・堀川。
永仁6年6月8日(ユリウス暦:1298年7月17日)叙従三位。
正三位・参議。
藤原 顕親
(顕高・房高)
[ 弘安7(1284)年 〜 康永2/興国4(1343)年 ]
顕家男。
文保元年2月5日(ユリウス暦:1317年3月18日)叙従三位。
従三位・非参議。
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羽林家家系別分類表
藤
原
氏
閑院家
20家
姉小路
、
阿野
、
梅園
、
裏辻
、
正親町
、
大宮
、
小倉
、
押小路
、
風早
、
河鰭
、
滋野井
、
清水谷
、
園池
、
高松
、
西四辻
、
橋本
、
花園
、
武者小路
、
山本
、
四辻
南家高倉(藪)流
3家
高丘
、
中園
、
藪
※南家高倉流は、閑院家に従属。
中御門家
9家
石山
、
石野
、
持明院
、
園
、
高野
、
東園
、
松木
、
壬生
、
六角
花山院家
5家
飛鳥井
、
今城
、
中山
、
難波
、
野宮
四条家
7家
油小路
、
櫛笥
、
四条
、
西大路
、
八条
、
山科
、
鷲尾
(園池⇒櫛笥庶流だが公屋が正親町三条実昭の猶子となった為、以降、閑院家となる。)
四条家庶流大綱略系図
御子左家
4家
入江
、
藤谷
、
(上)冷泉
、
下冷泉
、
水無瀬家
5家
桜井
、
七条
、
町尻
、
水無瀬
、
山井
高倉家
2家
樋口
、
堀河
源
氏
村上源氏
8家
岩倉
、
植松
、
梅溪
、
愛宕
、
久世
、
千種
、
東久世
、
六条
宇多源氏
3家
綾小路
、
大原
、
庭田
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