藤原 基家[ 長承元(1132)年 〜 建保2年2月26日(ユリウス暦:1214年4月7日) ]
正四位下大蔵卿通基朝臣二男。
母大蔵卿源師隆朝臣女(待賢門院女房上西門院御乳母号一条)。
法名真智。
承安2年正月23日(ユリウス暦:1172年2月18日)叙従三位。 建仁元年8月13日(ユリウス暦:1201年9月11日)出家。 正二位・権中納言。
藤原 基宗[ 久寿2(1155)年 〜 建仁2年2月25日(ユリウス暦:1202年3月20日) ]
基家一男。母右馬助源長時女(上西門院女房因幡)。
建久6年4月7日(ユリウス暦:1195年5月18日)叙従三位。 従三位・非参議。
※母は尊卑分脈によれば、散位隆重女。 ※没日は尊卑分脈によれば、26日。
藤原 保家[ 仁安2(1167)年 〜 承元4年3月1日(ユリウス暦:1210年3月27日) ]
基家二男。母平頼盛女。
建仁2年10月29日(ユリウス暦:1202年11月15日)叙従三位。 承元4年2月19日(ユリウス暦:1210年3月16日)出家。 従二位・権中納言。
※出家日・没年は尊卑分脈による。出家日は公卿補任によれば3月19日。
持明院 家行(本名家能)[ 安元元(1175)年 〜 嘉禄2年2月17日(ユリウス暦:1226年3月16日) ]
基宗二男。母上西門院帥局(昌玄僧正女)。
建保6年12月9日(ユリウス暦:1218年12月28日)叙従三位。 嘉禄2年2月13日(ユリウス暦:1226年3月12日)出家。 正三位・権中納言。
藤原 基保[ 建久3(1192)年 〜 弘長3年5月26日(ユリウス暦:1263年7月3日) ]
保家一男。母高階泰経女。
貞応元年11月22日(ユリウス暦:1222年12月26日)叙従三位。 正元元年10月3日(ユリウス暦:1259年10月20日)出家。 正二位・権中納言。
※母名は尊卑分脈による。公卿補任では高階経仲女とあるが、世代的にどうか。 ※出家日は百錬抄によるもの、公卿補任では正元元(1259)年月日出家。尊卑分脈では正元2(文応元)年11月4日(ユリウス暦:1260年12月7日)出家。 ※没日は尊卑分脈の校訂によると、前田家所蔵脇坂氏本では9月26日
藤原 家時[ 建久5(1194)年 〜 弘安5年7月20日(ユリウス暦:1282年8月24日) ]
保家二男。母高階泰経女。
嘉禎元年10月17日(ユリウス暦:1235年11月28日)叙従三位。 正三位・非参議。
※生年は公卿補任の最終年条の年齢89歳から逆算。公卿補任のそれまでの年齢から累積すると、没年齢は87歳となり、建久7(1196)年生まれということになる。
藤原 相保[ 元仁元(1224)年 〜 ? ]
少将俊保朝臣男。母法勝寺執行親尊女。
文永元年12月24日(ユリウス暦:1265年1月12日)叙従三位。 正応3年2月15日(ユリウス暦:1290年3月27日)出家。 従二位・非参議。
持明院 基光(本名家長)[ 嘉禄元(1225)年 〜 ? ]
正四位下左中将家教朝臣男。母 宇佐公宗女。法名・親空。
弘安3年12月7日(ユリウス暦:1280年12月30日)叙従三位。 徳治2年7月17日(ユリウス暦:1307年8月15日)出家。 従二位・非参議。
藤原 長相[ 正嘉元(1257)年 〜 ? ]
相保男。法名・相真。
正応3年10月19日(ユリウス暦:1290年11月22日)叙従三位。 応長元(1311)年6月出家。 正二位・参議。
持明院 保藤[ 建長6(1254)年 〜 康永元/興国3年9月26日(ユリウス暦:1342年10月26日) ]
基保男(実松殿良嗣男)。法名・保円。
正応5年12月30日(ユリウス暦:1293年2月7日)叙従三位。 嘉暦元年6月29日(ユリウス暦:1326年7月28日)出家。 正二位・権中納言。
※生年は公卿補任の各年に記載された年齢から逆算したもの。尊卑分脈によれば、没年齢は92歳となっているので、建長3(1251)年生まれということになる。
※尊卑分脈によれば、出家日は6月25日。
持明院 基澄[ ? 〜 元亨2(1322)年8月 ]
基光男。母兵部大輔平親成〔盛?〕朝臣女。
延慶2年11月23日(ユリウス暦:1309年12月25日)叙従三位。 元亨2(1322)年8月出家。 正三位・非参議。
持明院 基継(本名基嗣・基長・基兼)[ 康元元(1256)年 〜 建武2年6月21日(ユリウス暦:1335年7月11日) ]
左中将基盛朝臣男。母平信繁女。
延慶3年正月5日(ユリウス暦:1310年2月5日)叙従三位。 建武2年6月11日(ユリウス暦:1335年7月1日)出家。 正三位・非参議。
持明院 基雄[ ? 〜 建武元(1334)年 ]
基光男。
正和2年3月9日(ユリウス暦:1313年4月5日)叙従三位。 従三位・非参議。
持明院 基孝[ 乾元元(1302)年 〜 元亨2年10月19日(ユリウス暦:1322年11月28日) ]
正和4年4月10日(ユリウス暦:1315年5月13日)叙従三位。 正三位・参議。
藤原 家相(本名長基)[ ? 〜 正和4年8月15日(ユリウス暦:1315年9月14日) ]
長相男。
正和4年7月21日(ユリウス暦:1315年8月21日)叙従三位。 従三位・非参議。
持明院 基行(本名基範)[ 生没年不明 ]
正四位下基盛朝臣男。法名・道運。
元徳2年3月22日(ユリウス暦:1330年4月10日)叙従三位。 建武元(1334)年出家。 従三位・非参議。
持明院 保有(本名保俊)[ 生没年不明 ]
保藤男。母藤原光成女(室町院別当局)。法名・聖保。
暦応2/延元4年4月18日(ユリウス暦:1339年5月27日)叙従三位。 貞治2/正平18年6月5日(ユリウス暦:1363年7月16日)出家。 従二位・権中納言。
持明院 家藤[ ? 〜 貞和4/正平3年11月6日(ユリウス暦:1348年11月27日) ]
基長男。
暦応3/興国元年9月4日(ユリウス暦:1340年9月25日)叙従三位。 従三位・非参議。
持明院 家秀[ 生没年不明 ]
基世男。
貞治3/正平19年2月15日(ユリウス暦:1364年3月19日)叙従三位。 応安3/建徳元(1370)年出家。 従三位・非参議。
藤原 基清[ ? 〜 永徳2/弘和2年8月10日(ユリウス暦:1382年9月17日) ]
左少将基兼男。家行五代孫。
応安6/文中2年12月26日(ユリウス暦:1374年2月7日)叙従三位。 従三位・非参議。
持明院 保冬[ 元徳元(1329)年 〜 明徳3/元中9年10月16日(ユリウス暦:1392年11月1日) ]
保有男。
応安7/文中3年8月16日(ユリウス暦:1374年9月22日)叙従三位。 正三位・権中納言。
持明院 基親[ ? 〜 応永26年7月23日(ユリウス暦:1419年8月14日) ]
基清男。
応永17(1410)年正月叙従三位。 応永26年6月21日(ユリウス暦:1419年7月13日)出家。 正三位・非参議。
持明院 基世 〔⇒ 園家〕
園基秀男。
※持明院の家名が付されているが、不審。
持明院 基信[ ? 〜 文明2年7月1日(ユリウス暦:1470年7月28日) ]
正四位下基繁朝臣男。
文明元年9月18日(ユリウス暦:1469年10月23日)叙従三位。 従三位・非参議。
持明院 基保[ ? 〜 延徳2年7月13日(ユリウス暦:1490年7月30日) ]
父名不記載。系統不明(本姓は藤原氏となっている)。
文明4年9月2日(ユリウス暦:1472年10月4日)叙従三位。 文明14(1482)年以降、不見。 従三位・非参議。
公卿補任尻付
父。。
※文明4年条は、元右中将とある。
※没年は、大日本史料による。
持明院 基春[ 享徳2(1453)年 〜 天文4年7月26日(ユリウス暦:1535年8月24日) ]
基信男。母家女房。
明応6年10月14日(ユリウス暦:1497年11月8日)叙従三位。 正三位・参議。
公卿補任尻付
文明元年6月8日(ユリウス暦:1469年7月16日)叙従五位下(十六才)。
同7月5日(ユリウス暦:1469年8月12日)任侍従。
同12年8月25日(ユリウス暦:1480年9月29日)従五位上(28〔27ヵ〕才)。
同12月23日(ユリウス暦:1481年1月23日)左少将。
同15年11月6日(ユリウス暦:1483年12月5日)正五位下(30才)。
同18年3月26日(ユリウス暦:1486年4月30日)従四位下。
同19年3月10日(ユリウス暦:1487年4月3日)転〔権〕中将。
長享2年12月19日(ユリウス暦:1489年1月20日)従四位上。
明応2年正月6日(ユリウス暦:1493年1月23日)正四位下。
同3月25日(ユリウス暦:1493年4月11日)兼周防介。
持明院 基規(本名家親)[ 明応元(1492)年 〜 天文20年9月1日(ユリウス暦:1551年9月30日) ]
基春男。母家女房。号一忍軒。法名一貞紹忍。
大永3年12月30日(ユリウス暦:1524年2月4日)叙従三位。 天文20(1551)年8月出家。 正三位・権中納言。
陶晴賢の乱の際、死亡。
※系図纂要では名前は基親。
持明院 基孝[ 永正17年8月21日(ユリウス暦:1520年10月2日) 〜 慶長16年5月28日(1611年7月8日) ]
基規男。母水無瀬季兼女。法名・如空。永寿院松月〔系図纂要〕。
天文21年12月23日(ユリウス暦:1553年1月7日)叙従三位。 正二位・中納言。
持明院 基定[ 慶長12年4月10日(1607年5月5日) 〜 寛文7年10月17日(1667年12月2日) ]
左中将基久朝臣男(実 大沢基宥朝臣男)。母家女房。
善立院桂雲紹慶 〔系図纂要〕。一字名・守 〔類聚名伝抄〕。
寛永17年正月5日(1640年2月26日)叙従三位。 正二位・権大納言。
※系図纂要によれば、実権中納言基有卿二男、一本諸家伝故従四位下
左中将基宥朝臣男。茶話云基征微之家絶吉良義助男基定嗣云々。
持明院 基時[ 寛永12年9月5日(1635年10月15日) 〜 元禄17年3月10日(1704年4月13日) ]
基定男。母左中将持明院基久朝臣女。天楽院真月照空〔系図纂要〕。
一字名・俊 〔類聚名伝抄〕。
寛文3年2月24日(1663年4月2日)叙従三位。 正二位・権大納言。
持明院 基輔[ 明暦4年3月11日(1658年4月13日) 〜 正徳4年6月5日(1714年7月16日) ]
基時男。母家女房。善行院観窓了心〔系図纂要〕。
一字名・兼 〔類聚名伝抄〕。
貞享4年5月21日(1687年6月30日)叙従三位。 従二位・権中納言。
持明院 基雄[ 貞享4年正月21日(1687年3月4日) 〜 元文5年11月16日(1741年1月3日) ]
基輔男。母家女房。真等院看月青松〔系図纂要〕。
享保3年2月13日(1718年3月14日)叙従三位。 従二位・権中納言。
持明院 家胤[ 宝永2年8月27日(1705年10月14日) 〜 延享4年8月6日(1747年9月10日) ]
基雄男(実石野基顕次男)。母家女房。天徳院大道宗空〔系図纂要〕。
寛保元年12月21日(1742年1月27日)叙従三位。 正三位・参議。
持明院 宗時(本名永武)[ 享保17年正月3日(1732年1月29日) 〜 寛政7年6月27日(1795年8月11日) ]
家胤男(実高倉永房次男)。母家女房(実母家女房)。
勝明院楽峯泰善〔系図纂要〕。
宝暦12年正月28日(1762年2月21日)叙従三位。 正二位・権中納言。
持明院 基武[ 宝暦7年10月27日(1757年12月8日) 〜 寛政元年8月4日(1789年9月22日) ]
宗時男。母持明院家胤女。養真院仙厳観応〔系図纂要〕。
安永10年正月12日(1781年2月4日)叙従三位。 正三位・非参議。
持明院 基延[ 寛政4年6月1日(1792年7月19日) 〜 安政2年9月9日(1855年10月19日) ]
文政2年4月5日(1819年4月28日)叙従三位。 従二位・権中納言。
持明院 基政[ 文化7年9月27日(1810年10月25日) 〜 慶応4年正月25日(1868年2月18日) ]
天保9年7月16日(1838年9月4日)叙従三位。 正三位・非参議。
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