羽林家 (持明院)

羽林家家系別分類表

 

持明院
【じみょういん】

本姓:藤原氏。華族類別録第五十八類。
旧家
内々
近衛家門流
藤原北家中御門流。関白藤原道長の曾孫右大臣中御門俊家の子鎮守府将軍基頼の子通基を祖とする。
熱田誓願寺・近江金勝寺伝奏〔雲上明覧大全文久元年版巻末〕

庶流の堂上家に園・高野・石野・東園・壬生・石山・六角がある。 また、高家の2家の大沢家も持明院家の後裔という。
家紋 杏葉。
家業 筆道〔諸家々業記・諸家知譜拙記〕・神楽郢曲〔諸家々業記・諸家知譜拙記〕
〔諸家々業記・現代華族譜要此同〕
江戸期石高 200石〔諸家知譜拙記〕
明治期爵位 子爵。明治17(1884)年7月8日持明院基哲子爵授爵〔現代華族譜要〕
菩提所 蘆山寺〔華族名鑑此同〕
居所 日御門前。
持明院家系図
通基までの詳細な系図は、藤原北家Ⅱ・頼宗子孫を参照。
藤原道長 ┳ 頼通〔⇒五摂家・花山院家〕
  ┣ 頼宗 ━ 俊家 ┳ 宗俊〔中御門(松木)
  ┣ 能信 ┣ 基頼 ━ 通基 ┳ 通親(従五位下。筑前守。早世)
  ┣ 顕信 ┗ 宗通[白河] ┣ 通重〔一条
  ┣ 教通 ┣ 基家 ⇒
  ┣ 長家〔御子左〕 ┣ 良基(延暦寺。阿闍梨。檀那院。阿弥陀院)
  ┗ 長信 ┣ 長基(延暦寺。阿闍梨。法眼)
  ┣ 女子(藤原公通室)
  ┗ 女子(藤原実綱母、或実綱室)
┳ 基宗 ┳ 家能 ┳ 家定 ┳ 基盛
  ┃   ┃   ┃   ┣ 基直(従五位上。侍従)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 最喜(延暦寺)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 守円(仁和寺。法印権大僧都)
  ┃   ┃   ┣ 女子(母藤原定能女。後堀河天皇典侍。
  ┃   ┃   ┃   称別当典侍。神仙門院等母)
  ┃   ┃   ┣ 基長 ━ 親家(或家親。園城寺。権大僧都、或大僧都)
  ┃   ┃   ┣ 女子(藤原頼経室)
  ┃   ┃   ┣ 女子
  ┃   ┃   ┗ 女子
  ┃   ┣ 基能(従五位下。備後守、或備前守。母同家能)
  ┃   ┣ 家隆
  ┃   ┣ 宗雲(延暦寺。法印)
  ┃   ┣ 宗全 ┳ 信遍(仁和寺。法印)
  ┃   ┃   ┗ 仁基(法印権大僧都)
  ┃   ┗ 女子
  ┣ 保家 ┳ 基保 ┳ 保藤 ┳ 俊藤 ━ 基孝 ━ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┣ 基方(正四位下左中将。早世。母同俊藤)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 保有 ┳ 保世 ━ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 保脩 ┳ 保定(左少将従四位下)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 保冬 ━ 保通
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┣ 房保(猶子。実藤原為世男。左中将)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 保成
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(洞院実夏室。公定等母。母同保成)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(後醍醐院新按察典侍)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(嫁白川資英王)
  ┃   ┃   ┣ 印基
  ┃   ┃   ┗ 教基
  ┃   ┣ 俊保 ┳ 相保 ┳ 長相 ┳ 家相 ┳ 相保
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 相秀
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 家顕(侍従。従五位下)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 房俊
  ┃   ┃   ┃   ┗ 基信(従五位下。出雲守)
  ┃   ┃   ┣ 俊時
  ┃   ┃   ┗ 教俊
  ┃   ┣ 家時 ┳ 基時
  ┃   ┃   ┗ 定俊
  ┃   ┣ 家任 ━ 基光 ┳ 基澄 ━ 基清 ━ 基信
  ┃   ┃   ┣ 基雄 ━ 基員(左少将正四位下)
  ┃   ┃   ┣ 深俊
  ┃   ┃   ┗ 女子(大炊御門嗣雄室)
  ┃   ┣ 尊基(園城寺。法眼)
  ┃   ┣ 親保 ┳ 覚親(延暦寺。僧正)
  ┃   ┃   ┣ 豪基
  ┃   ┃   ┗ 俊助(延暦寺。法印)
  ┃   ┣ 行愉(延暦寺。阿闍梨)
  ┃   ┣ 玄基(延暦寺。少僧都)
  ┃   ┗ 女子(松殿忠房室。良嗣母)
  ┣ 基氏〔
  ┣ 行雲(本名覚全)
  ┣ 俊玄(延暦寺。法印権大僧都)
  ┣ 女子(陳子。北白河院。後高倉院妃。後堀河天皇母。母平頼盛女。
  ┃   長寛元(1163)年生。
  ┃   貞応元年4月13日(ユリウス暦:1222年5月25日)叙従三位。
  ┃   同日准三宮。
  ┃   為尼如律〔女院小伝〕。同年7月11日院号。
  ┃   嘉禎4年10月3日(ユリウス暦:1238年11月10日)崩)
  ┣ 女子(藤原実宗室。西園寺公経母。母同上)
  ┣ 女子(平資盛妾)
  ┣ 女子(源兼忠室離別)
  ┗ 女子(或維明親王妾)
┳ 基継 ┳ 家藤 ━ 基秀 ━ 基久〔大沢
  ┃   ┣ 女子(持明院基孝室)
  ┃   ┗ 基繁 ━ 家繁
  ┣ 俊盛 ━ 盛雅
  ┣ 基世 ┳ 基兼 ━ 基清 ━ 基親
  ┃   ┗ 家秀 ━ 基輔
  ┣ 基行 ━ 行雅(右中将)
  ┗ 玄勝(延暦寺。法印権大僧都)
┳ 基繁 ┳ 基信 ┳ 基春 ┳ 基規 ━ 基孝 ┳ 基久 ┳ 基征 ━ 基定
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 基秀河鰭公虎嗣)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 頼直(富小路秀直嗣)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(基定妻)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(基子。本孝子。後陽成院内侍。従四位上。
  ┃   ┃   ┃   ┃   勾当内侍〔本朝皇胤紹運録〕。
  ┃   ┃   ┃   ┃   大納言典侍。号了性院。※謚号考
  ┃   ┃   ┃   ┃   によれば、大機文用。霊鑑寺。
  ┃   ┃   ┃   ┃   寛永21年正月2日(1644年2月9日)寂)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(※皇親系による。後奈良天皇後宮)
  ┃   ┃   ┗ 女子
  ┃   ┗ 男子(大沢右京大夫祖。*家譜による)
  ┣ 女子西園寺実永室。公名母)
  ┗ 女子(徳大寺公有母)
┳ 基時 ┳ 基輔 ┳ 基雄 ━ 家胤 ━ 宗時 ┳ 基武 ━ 基敦
  ┃   ┃   ┃   ┣ 基逸(従五位下。返上位記)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(高倉永彰母)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 男子(※高千穂家譜による。
  ┃   ┃   ┃       始特有後改妙有。
  ┃   ┃   ┃       宗時二男とある。
  ┃   ┃   ┃       花山院常雅猶子。
  ┃   ┃   ┃       高千穂孝有〔孝助〕嗣)
  ┃   ┃   ┣ 公尚四辻公韶嗣)
  ┃   ┃   ┗ 女子(五条為範室)
  ┃   ┣ 基顕〔石野
  ┃   ┣ 基禎 ┳ 基清(※系図纂要作基忠)大沢
  ┃   ┃   ┗ 女子(※寛政重修諸家譜による。実井上政蔽女。
  ┃   ┃   松平容貞家臣西郷頼母近致妻)
  ┃   ┗ 基清(※寛政重修諸家譜による。基忠。基貫〔基禎〕嗣)
  ┣ 保春〔高野
  ┣ 女子高倉永敦室。永福母)
  ┗ 女子(※稲葉家譜による。稲葉正通継室)
┳ 基延 ┳ 基政 ┳ 基和 ┳ 基静(実飛鳥井雅典三男。母家女房) ⇒
  ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(和子)
  ┃   ┃   ┣ 女子(基子。留子。伏原宣足妻。
  ┃   ┃   ┃   弘化2年4月15日(1845年5月20日)生〔華族名鑑〕)
  ┃   ┃   ┗ 女子(治子。正五位。権典侍。称植松。
  ┃   ┃       嘉永2年正月8日(1849年1月31日)生〔華族名鑑〕。
  ┃   ┃       後、若王子遠文妻)
  ┃   ┣ 女子(延子。花園公総妻)
  ┃   ┗ 女子(満子)
  ┣ 実利(河鰭公陳嗣)
  ┣ 保右(高野保忠嗣)
  ┣ 賢助(東寺。東塔院。法眼)
  ┗ 女子(新清和門院女房敦子)
基哲 (実石野基佑二男〔現代華族譜要〕。
    幼名浅麿〔大日本華族大鑑〕。
    慶応元[元治2]年2月12日(1865年3月9日)生〔華族名鑑〕。
    大正14(1925)年6月卒〔現代華族譜要〕。
    夫人基和長女久子〔現代華族譜要。
    万延元年3月28日(1860年4月18日)生〕)

大沢家系図

基久 ━ (略※1) ━ 基相
基胤 ┳ 基宥 ┳ 基重 ┳ 基将 ┳ 基恒 ━ 基隆
  ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(林権左衛門勝明妻)
  ┃   ┃   ┣ 女子(土方五郎左衛門勝次妻)
  ┃   ┃   ┣ 尚親 ⇒A
  ┃   ┃   ┣ 女子(中野伝右衛門弘吉妻)
  ┃   ┃   ┣ 基哲 ⇒B
  ┃   ┃   ┗ 女子(松平伝兵衛乗延妻)
  ┃   ┣ 女子(渡邊山城守茂養女)
  ┃   ┣ 女子(山名平右衛門豊政妻)
  ┃   ┣ 基定持明院基久嗣)
  ┃   ┣ 基成 ⇒C
  ┃   ┣ 基近(善右衛門。仕徳川頼宣)
  ┃   ┗ 基賀 ⇒D
  ┗ 基雄 ⇒E
┳ 女子 (戸川五左衛門村由妻)
  ┣ 女子  
  ┣ 基朝 (初基朝。定賢。安次郎。兵部。
  ┃   丹波守。侍従。従四位下。
  ┃   致仕後近江守。母清照女。
  ┃   宝暦2年4月9日(1752年5月22日)致仕。
  ┃   寛政3年6月18日(1791年7月18日)卒。
  ┃   法名賢心)
  ┣ 女子 (柴田清六郎勝昿妻)
  ┗ 英用 (金五郎。登助。近藤寧用養子)
┳ (真太郎。早世)
  ┣ 定寧 (初基典。七助。兵部。相模守。
  ┃   従五位下。侍従。
  ┃   安永5年9月11日(1776年10月22日)卒。
  ┃   法名了玄)
  ┣ 女子  
  ┣ (銕三郎)
  ┗ 基堅 (侾七郎)
┳ 基之 (初定興。基埋。乙次郎。右京。
  ┃   右京大夫。侍従。従五位下。
  ┃   実近藤登助英用六男。母米津政容女。
  ┃   寛政6年8月21日(1794年9月14日)列奥高家)
  ┣ 女子 (基之妻)
  ┗ 女子 (中条信義妻)

系図纂要と寛政重修諸家譜では名前が若干違っている。寛政譜に従った。
基清 ┳ 女子(長嶋道仙秀房妻)
  ┣ 女子日野資鋪妻。後、丹羽六左衛門長行妻)
  ┣ 基業 ┳ 男子(早世)
  ┃   ┗ 基季 ┳ 基靖(※系図纂要作基利。銕三郎。内膳。
  ┃   ┃   明和7(1770)年生。
  ┃   ┃   寛政3年9月4日(1791年10月1日)卒。
  ┃   ┃   法名泰明院真遂日解〔系図纂要〕。
  ┃   ┃   室戸田土佐守氏朋女)
  ┃   ┣ 女子(中嶋本次郎行政妻)
  ┃   ┣ 女子
  ┃   ┣ 基隆(陽之助。左京。従五位下侍従〔系図纂要〕。
  ┃   ┃   母京極高永女。文化6年3月26日(1809年5月10日)卒。
  ┃   ┃   法名泰心院長清日昇〔系図纂要〕)
  ┃   ┗ 基休 ━ 基通 ━ 基恭(城之助)
  ┗ 基春(清次郎。松平八十郎忠直養子)
藤原 基家[ 長承元(1132)年 〜 建保2年2月26日(ユリウス暦:1214年4月7日) ]
正四位下大蔵卿通基朝臣二男。
母大蔵卿源師隆朝臣女(待賢門院女房上西門院御乳母号一条)。
法名真智。
承安2年正月23日(ユリウス暦:1172年2月18日)叙従三位。
建仁元年8月13日(ユリウス暦:1201年9月11日)出家。
正二位・権中納言。
藤原 基宗[ 久寿2(1155)年 〜 建仁2年2月25日(ユリウス暦:1202年3月20日) ]
基家一男。母右馬助源長時女(上西門院女房因幡)。
建久6年4月7日(ユリウス暦:1195年5月18日)叙従三位。
従三位・非参議。
※母は尊卑分脈によれば、散位隆重女。
※没日は尊卑分脈によれば、26日。
藤原 保家[ 仁安2(1167)年 〜 承元4年3月1日(ユリウス暦:1210年3月27日) ]
基家二男。母平頼盛女。
建仁2年10月29日(ユリウス暦:1202年11月15日)叙従三位。
承元4年2月19日(ユリウス暦:1210年3月16日)出家。
従二位・権中納言。
※出家日・没年は尊卑分脈による。出家日は公卿補任によれば3月19日。
持明院 家行(本名家能)[ 安元元(1175)年 〜 嘉禄2年2月17日(ユリウス暦:1226年3月16日) ]
基宗二男。母上西門院帥局(昌玄僧正女)。
建保6年12月9日(ユリウス暦:1218年12月28日)叙従三位。
嘉禄2年2月13日(ユリウス暦:1226年3月12日)出家。
正三位・権中納言。
※尊卑分脈によれば、母は藤原忠成女。
藤原 基保[ 建久3(1192)年 〜 弘長3年5月26日(ユリウス暦:1263年7月3日) ]
保家一男。母高階泰経女。
貞応元年11月22日(ユリウス暦:1222年12月26日)叙従三位。
正元元年10月3日(ユリウス暦:1259年10月20日)出家。
正二位・権中納言。
※母名は尊卑分脈による。公卿補任では高階経仲女とあるが、世代的にどうか。
※出家日は百錬抄によるもの、公卿補任では正元元(1259)年月日出家。尊卑分脈では正元2(文応元)年11月4日(ユリウス暦:1260年12月7日)出家。
※没日は尊卑分脈の校訂によると、前田家所蔵脇坂氏本では9月26日
藤原 家時[ 建久5(1194)年 〜 弘安5年7月20日(ユリウス暦:1282年8月24日) ]
保家二男。母高階泰経女。
嘉禎元年10月17日(ユリウス暦:1235年11月28日)叙従三位。
正三位・非参議。
※生年は公卿補任の最終年条の年齢89歳から逆算。公卿補任のそれまでの年齢から累積すると、没年齢は87歳となり、建久7(1196)年生まれということになる。
藤原 相保[ 元仁元(1224)年 〜 ? ]
少将俊保朝臣男。母法勝寺執行親尊女。
文永元年12月24日(ユリウス暦:1265年1月12日)叙従三位。
正応3年2月15日(ユリウス暦:1290年3月27日)出家。
従二位・非参議。
持明院 基光(本名家長)[ 嘉禄元(1225)年 〜 ? ]
正四位下左中将家教朝臣男。母宇佐公宗女。法名・親空。
弘安3年12月7日(ユリウス暦:1280年12月30日)叙従三位。
徳治2年7月17日(ユリウス暦:1307年8月15日)出家。
従二位・非参議。
藤原 長相[ 正嘉元(1257)年 〜 ? ]
相保男。法名・相真。
正応3年10月19日(ユリウス暦:1290年11月22日)叙従三位。
応長元(1311)年6月出家。
正二位・参議。
持明院 保藤[ 建長6(1254)年 〜 康永元/興国3年9月26日(ユリウス暦:1342年10月26日) ]
基保男(実松殿良嗣男)。法名・保円。
正応5年12月30日(ユリウス暦:1293年2月7日)叙従三位。
嘉暦元年6月29日(ユリウス暦:1326年7月28日)出家。
正二位・権中納言。
※生年は公卿補任の各年に記載された年齢から逆算したもの。尊卑分脈によれば、没年齢は92歳となっているので、建長3(1251)年生まれということになる。
※尊卑分脈によれば、出家日は6月25日。
持明院 基澄[ ? 〜 元亨2(1322)年8月 ]
基光男。母兵部大輔平親成〔盛?〕朝臣女。
延慶2年11月23日(ユリウス暦:1309年12月25日)叙従三位。
元亨2(1322)年8月出家。
正三位・非参議。
持明院 基継(本名基嗣・基長・基兼)[ 康元元(1256)年 〜 建武2年6月21日(ユリウス暦:1335年7月11日) ]
左中将基盛朝臣男。母平信繁女。
延慶3年正月5日(ユリウス暦:1310年2月5日)叙従三位。
建武2年6月11日(ユリウス暦:1335年7月1日)出家。
正三位・非参議。
持明院 基雄[ ? 〜 建武元(1334)年 ]
基光男。
正和2年3月9日(ユリウス暦:1313年4月5日)叙従三位。
従三位・非参議。
持明院 基孝[ 乾元元(1302)年 〜 元亨2年10月19日(ユリウス暦:1322年11月28日) ]
正四位下行左近中将俊藤男。母藤原伊家女。
正和4年4月10日(ユリウス暦:1315年5月13日)叙従三位。
正三位・参議。
藤原 家相(本名長基)[ ? 〜 正和4年8月15日(ユリウス暦:1315年9月14日) ]
長相男。
正和4年7月21日(ユリウス暦:1315年8月21日)叙従三位。
従三位・非参議。
持明院 基行(本名基範)[ 生没年不明 ]
正四位下基盛朝臣男。法名・道運。
元徳2年3月22日(ユリウス暦:1330年4月10日)叙従三位。
建武元(1334)年出家。
従三位・非参議。
持明院 保有(本名保俊)[ 生没年不明 ]
保藤男。母藤原光成女(室町院別当局)。法名・聖保。
暦応2/延元4年4月18日(ユリウス暦:1339年5月27日)叙従三位。
貞治2/正平18年6月5日(ユリウス暦:1363年7月16日)出家。
従二位・権中納言。
持明院 家藤[ ? 〜 貞和4/正平3年11月6日(ユリウス暦:1348年11月27日) ]
基長男。
暦応3/興国元年9月4日(ユリウス暦:1340年9月25日)叙従三位。
従三位・非参議。
持明院 家秀[ 生没年不明 ]
基世男。
貞治3/正平19年2月15日(ユリウス暦:1364年3月19日)叙従三位。
応安3/建徳元(1370)年出家。
従三位・非参議。
藤原 基清[ ? 〜 永徳2/弘和2年8月10日(ユリウス暦:1382年9月17日) ]
左少将基兼男。家行五代孫。
応安6/文中2年12月26日(ユリウス暦:1374年2月7日)叙従三位。
従三位・非参議。
持明院 保冬[ 元徳元(1329)年 〜 明徳3/元中9年10月16日(ユリウス暦:1392年11月1日) ]
保有男。
応安7/文中3年8月16日(ユリウス暦:1374年9月22日)叙従三位。
正三位・権中納言。
持明院 基親[ ? 〜 応永26年7月23日(ユリウス暦:1419年8月14日) ]
基清男。
応永17(1410)年正月叙従三位。
応永26年6月21日(ユリウス暦:1419年7月13日)出家。
正三位・非参議。
持明院 基世 〔⇒ 園家
園基秀男。
※持明院の家名が付されているが、不審。
持明院 基信[ ? 〜 文明2年7月1日(ユリウス暦:1470年7月28日) ]
正四位下基繁朝臣男。
文明元年9月18日(ユリウス暦:1469年10月23日)叙従三位。
従三位・非参議。
持明院 基保[ ? 〜 延徳2年7月13日(ユリウス暦:1490年7月30日) ]
父名不記載。系統不明(本姓は藤原氏となっている)。
文明4年9月2日(ユリウス暦:1472年10月4日)叙従三位。
文明14(1482)年以降、不見。
従三位・非参議。
公卿補任尻付
父。。
※文明4年条は、元右中将とある。
※没年は、大日本史料による。
持明院 基春[ 享徳2(1453)年 〜 天文4年7月26日(ユリウス暦:1535年8月24日) ]
基信男。母家女房。
明応6年10月14日(ユリウス暦:1497年11月8日)叙従三位。
正三位・参議。
公卿補任尻付
文明元年6月8日(ユリウス暦:1469年7月16日)叙従五位下(十六才)。
同7月5日(ユリウス暦:1469年8月12日)任侍従。
同12年8月25日(ユリウス暦:1480年9月29日)従五位上(28〔27ヵ〕才)。
同12月23日(ユリウス暦:1481年1月23日)左少将。
同15年11月6日(ユリウス暦:1483年12月5日)正五位下(30才)。
同18年3月26日(ユリウス暦:1486年4月30日)従四位下。
同19年3月10日(ユリウス暦:1487年4月3日)転〔権〕中将。
長享2年12月19日(ユリウス暦:1489年1月20日)従四位上。
明応2年正月6日(ユリウス暦:1493年1月23日)正四位下。
同3月25日(ユリウス暦:1493年4月11日)兼周防介。
持明院 基規(本名家親)[ 明応元(1492)年 〜 天文20年9月1日(ユリウス暦:1551年9月30日) ]
基春男。母家女房。号一忍軒。法名一貞紹忍。
大永3年12月30日(ユリウス暦:1524年2月4日)叙従三位。
天文20(1551)年8月出家。
正三位・権中納言。
陶晴賢の乱の際、死亡。
※系図纂要では名前は基親。
持明院 基孝[ 永正17年8月21日(ユリウス暦:1520年10月2日) 〜 慶長16年5月28日(1611年7月8日) ]
基規男。母水無瀬季兼女。法名・如空。永寿院松月〔系図纂要〕
天文21年12月23日(ユリウス暦:1553年1月7日)叙従三位。
正二位・中納言。
持明院 基定[ 慶長12年4月10日(1607年5月5日) 〜 寛文7年10月17日(1667年12月2日) ]
左中将基久朝臣男(実大沢基宥朝臣男)。母家女房。
善立院桂雲紹慶〔系図纂要〕。一字名・守 〔類聚名伝抄〕
寛永17年正月5日(1640年2月26日)叙従三位。
正二位・権大納言。
※系図纂要によれば、実権中納言基有卿二男、一本諸家伝故従四位下 左中将基宥朝臣男。茶話云基征微之家絶吉良義助男基定嗣云々。
持明院 基時[ 寛永12年9月5日(1635年10月15日) 〜 元禄17年3月10日(1704年4月13日) ]
基定男。母左中将持明院基久朝臣女。天楽院真月照空〔系図纂要〕
一字名・俊 〔類聚名伝抄〕
寛文3年2月24日(1663年4月2日)叙従三位。
正二位・権大納言。
持明院 基輔[ 明暦4年3月11日(1658年4月13日) 〜 正徳4年6月5日(1714年7月16日) ]
基時男。母家女房。善行院観窓了心〔系図纂要〕
一字名・兼 〔類聚名伝抄〕
貞享4年5月21日(1687年6月30日)叙従三位。
従二位・権中納言。
持明院 基雄[ 貞享4年正月21日(1687年3月4日) 〜 元文5年11月16日(1741年1月3日) ]
基輔男。母家女房。真等院看月青松〔系図纂要〕
享保3年2月13日(1718年3月14日)叙従三位。
従二位・権中納言。
持明院 家胤[ 宝永2年8月27日(1705年10月14日) 〜 延享4年8月6日(1747年9月10日) ]
基雄男(実石野基顕次男)。母家女房。天徳院大道宗空〔系図纂要〕
寛保元年12月21日(1742年1月27日)叙従三位。
正三位・参議。
持明院 宗時(本名永武)[ 享保17年正月3日(1732年1月29日) 〜 寛政7年6月27日(1795年8月11日) ]
家胤男(実高倉永房次男)。母家女房(実母家女房)。
勝明院楽峯泰善〔系図纂要〕
宝暦12年正月28日(1762年2月21日)叙従三位。
正二位・権中納言。
持明院 基武[ 宝暦7年10月27日(1757年12月8日) 〜 寛政元年8月4日(1789年9月22日) ]
宗時男。母持明院家胤女。養真院仙厳観応〔系図纂要〕
安永10年正月12日(1781年2月4日)叙従三位。
正三位・非参議。
持明院 基延[ 寛政4年6月1日(1792年7月19日) 〜 安政2年9月9日(1855年10月19日) ]
右権少将基敦朝臣男。母今城定興女。
文政2年4月5日(1819年4月28日)叙従三位。
従二位・権中納言。
持明院 基政[ 文化7年9月27日(1810年10月25日) 〜 慶応4年正月25日(1868年2月18日) ]
基延男。母広橋胤定女。
天保9年7月16日(1838年9月4日)叙従三位。
正三位・非参議。
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南家高倉(藪)流
3家
※南家高倉流は、閑院家に従属。
中御門家
9家
花山院家
5家
四条家
7家
(園池⇒櫛笥庶流だが公屋が正親町三条実昭の猶子となった為、以降、閑院家となる。)
 四条家庶流大綱略系図
御子左家
4家
水無瀬家
5家
高倉家
2家

村上源氏
8家
宇多源氏
3家