羽林家 (山科)

羽林家家系別分類表

山科【やましな】

   
本姓:藤原氏。華族類別録第四十五類。
旧家
内々
近衛家門流
藤原北家四条流。四条家成の6男実教を祖とする。
庶流に教成の子忠成を祖とする冷泉流がある。
また、明治維新には、言知の二男で、聖護院院家若王子住職の遠文が復飾し、若王子家を興す。
家紋 折り入り菱。
家業 衣紋道・笙。高倉家と共に有職故実の家元。
江戸期石高 300石。
明治期爵位 伯爵。明治17(1884)年7月7日言縄伯爵授爵〔現代華族譜要〕
菩提所 松林院。
居所 今出川御門西へ入。

山科家系図

[実教までの系図は四条家を参照]
実教 ┳ 公頼 ━ 女子
  ┣ 公基(周防守修理大夫)
  ┣ 公長 ━ 教氏
  ┣ 教成 ┳ 教房 ┳ 資成 ━ 資行 ━ 教行
  ┃   ┃   ┣ 教頼 ━ 教定 ┳ 教賢(左中将。正四位下。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ※四条家譜によれば、
  ┃   ┃   ┃   ┃   家号北谷、以後断絶)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 教宗 ━ 定平
  ┃   ┃   ┃   ┣ 季成
  ┃   ┃   ┃   ┣ 頼房 ━ 教兼 ┳ 教広
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 教音
  ┃   ┃   ┃   ┣ 定平(系図纂要作宗平)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子
  ┃   ┃   ┃   ┗ 教行(資行嗣)
  ┃   ┃   ┗ 教宣(内蔵頭)
  ┃   ┣ 教綱(左少将。中務大輔。正四位下)
  ┃   ┣ 教経
  ┃   ┣ 教基
  ┃   ┣ 教高
  ┃   ┗ 忠成〔冷泉
  ┣ 宗明 ━ 成行
  ┣ 公広(右馬頭正四位下)
  ┣ 女子(藤原範能室)
  ┣ 女子
  ┗ 女子(藤原兼光室)
┳ 教言 ┳ 教藤 ━ 教持(右兵衛佐)
  ┃   ┣ 教興 ┳ 教豊 ━ 顕言 ━ 言国
  ┃   ┃   ┣ 嗣教(右中将)
  ┃   ┃   ┗ 景嵯(相国寺僧)
  ┃   ┣ 教冬 ┳ 教有 ┳ 有経 ━ 房実(律師)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 教具
  ┃   ┃   ┣ 持俊 ━ 俊藤(右少将。四条家譜に
  ┃   ┃   ┃   よれば、従四位下。
  ┃   ┃   ┃   家号清瀧。以後断絶)
  ┃   ┃   ┗ 時教
  ┃   ┣ 教友
  ┃   ┗ 宗在(禅)
  ┣ 教繁 ┳ 教遠 ┳ 保宗
  ┃   ┃   ┣ 教高(左兵衛佐。左少将)
  ┃   ┃   ┣ 教久
  ┃   ┃   ┗ 定紹
  ┃   ┣ 繁右 ━ 家治(内蔵頭。右少将)
  ┃   ┣ 教昭(園城寺。律師)
  ┃   ┣ 見誉(阿弥陀院院主)
  ┃   ┣ 良山(建仁寺首座。祥雲院)
  ┃   ┗ 女子(勝鬘院殿女房)
  ┣ 教快(興福寺)
  ┣ 教空(律師)
  ┣ 頼瑜(園城寺)
  ┣ 宗漸(建仁寺首座)
  ┣ 女子(新室町院兵衛督)
  ┣ 女子(広義門院新右兵衛督)
  ┣ 女子(藤原家綱室)
  ┣ 女子(光明門院小兵衛督)
  ┗ 女子(紀俊長母)
┳ 定言(母高倉永継女。正五位下。
  ┃   右少将。文明8(1476)年生。
  ┃   明応3年7月30日(ユリウス暦:1494年8月30日)卒)
  ┣ 言綱 ━ 言継 ┳ 教明(母葉室頼継女。従五位下。
  ┃   ┃   天文8(1539)年生。
  ┃   ┃   天文12年6月30日
  ┃   ┃   (ユリウス暦:1543年7月31日)卒)
  ┃   ┣ 言経 ┳ 教遠 ━ 教利
  ┃   ┃   ┗ 言緒 ━ 言総
  ┃   ┣ 以継(諸家知譜拙記作諸光。
  ┃   ┃   薄以緒嗣。正五位下)
  ┃   ┣ 女子(福禅庵尼)
  ┃   ┗ 女子
  ┗ 女子(白山長吏澄明法印妻)
言行 ┳ 持言 ┳ 男子(早世)
  ┃   ┣ 堯言
  ┃   ┣ 女子(早世)
  ┃   ┣ 男子(早世)
  ┃   ┣ 女子(押小路実岑室)
  ┃   ┣ 女子(早世)
  ┃   ┣ 女子(早世)
  ┃   ┗ 女子(早世)
  ┣ 女子
  ┣ 隆安四条隆音嗣)
  ┣ 女子(一条兼輝室〔家譜。
  ┃   系図纂要作
  ┃   鷹司房輔妾〕)
  ┣ 女子(早世)
  ┗ 女子(早世)
┳ 男子(早世)
  ┣ 頼言 ┳ 敬言 ┳ 男子(早世)
  ┃   ┃   ┣ 女子(早世)
  ┃   ┃   ┣ 男子(早世)
  ┃   ┃   ┣ 忠言
  ┃   ┃   ┣ 男子(早世)
  ┃   ┃   ┣ 女子池尻暉房室。定孝母)
  ┃   ┃   ┗ 女子(早世)
  ┃   ┣ 隆要西大路隆共朝臣養子)
  ┃   ┣ 隆良西大路隆共朝臣養子)
  ┃   ┣ 女子(早世)
  ┃   ┣ 男子(早世)
  ┃   ┣ 男子(早世)
  ┃   ┗ 男子(早世)
  ┣ 女子藤谷為香室)
  ┣ 女子(早世)
  ┗ 男子(早世)
┳ 言知 ┳ 言成 ━ 言縄
  ┃   ┣ 遠文〔若王子
  ┃   ┣ 男子(妙心寺内麟祥院住職)
  ┃   ┗ 益子(西川賢平夫人。
  ┃       華族家系大成による)
  ┣ 隆道油小路隆前養子)
  ┣ 女子(早世)
  ┣ 女子(早世)
  ┗ 女子葉室顕孝室。
      葉室家譜・系図纂要による)
藤原 実教
[ 久安6(1150)年 〜 嘉禄3年4月3日(ユリウス暦:1227年5月19日) ]
家成六男。母藤原経忠女。藤原実能為子。藤原公親猶子。号藤井。
文治4年10月14日(ユリウス暦:1188年11月4日)任参議。
建暦2年12月19日(ユリウス暦:1213年1月12日)出家。
正二位・中納言。
※諸家知譜拙記によれば、実父が藤原公親、実母が家成女。
藤原 教成
[ 治承元(1177)年 〜 延応元年4月13日(ユリウス暦:1239年5月17日) ]
実教猶子(実相模守平業房男)。母高階栄子。童名号金毘羅丸。
建仁4年正月13日(ユリウス暦:1204年2月15日)叙従三位。
正二位・権中納言。
藤原 公頼
[ 承安2(1172)年 〜 建長2年11月24日(ユリウス暦:1250年12月18日) ]
実教二男。母藤原光隆女。
元久元年4月12日(ユリウス暦:1204年5月13日)叙従三位。
正二位・参議。
藤原 公長
[ 元暦元(1184)年 〜 ? ]
実教三男。母藤原光隆女。法名・尊仏。
建保7年正月5日(ユリウス暦:1219年1月22日)叙従三位。
仁治元年10月20日(ユリウス暦:1240年11月5日)出家。
正三位・非参議。
藤原 宗明
[ 生没年不明 ]
実教男(実藤原基宗男)。法名・孝信。
仁治元年10月24日(ユリウス暦:1240年11月9日)叙従三位。
寛元3年5月13日(ユリウス暦:1245年6月8日)出家。
従三位・非参議。
※名月記によれば、基宗猶子。
藤原 教氏
[ ? 〜 文永6(1269)年 ]
公長男。母隠岐守師高女。
弘長3年正月6日(ユリウス暦:1263年2月15日)叙従三位。
従三位・非参議。
藤原 教定
[ 文永8(1271)年 〜 元徳2年2月11日(ユリウス暦:1330年3月1日) ]
右中将正四位下教頼朝臣男。
徳治3年2月7日(ユリウス暦:1308年2月29日)叙従三位。
従二位・非参議。
※生年は没年齢を60歳として計算。初見時の年齢から計算すると、建治元(1275)年生まれ。
山科 教言
[ 嘉暦3年6月8日(ユリウス暦:1328年7月15日) 〜 応永16年12月15日(ユリウス暦:1410年1月20日) ]
右〔左?〕中将正四位下教行男。法名・常言。
延文4/正平14年4月21日(ユリウス暦:1359年5月18日)叙従三位。
応永2年6月26日(ユリウス暦:1395年7月13日)出家。
正二位・権中納言。
山科 教繁
[ ? 〜 明徳2/元中8年6月6日(ユリウス暦:1391年7月8日) ]
教行二男。
永和4/天授4年4月17日(ユリウス暦:1378年5月14日)叙従三位。
従二位・参議。
山科 教藤(本名教長)
[ ? 〜 応永2年2月6日(ユリウス暦:1395年2月25日) ]
教言男。
至徳3/元中3年正月6日(ユリウス暦:1386年2月5日)叙従三位。
正三位・参議。
山科 教冬
[ ? 〜 応永16年7月12日(ユリウス暦:1409年8月22日) ]
教言二男。母橘知任女。
応永11年正月6日(ユリウス暦:1404年2月16日)叙従三位。
正三位・非参議。
山科 教遠
[ 康安元/正平16(1361)年 〜 応永28年6月29日(ユリウス暦:1421年7月28日) ]
教繁男。
応永11年3月3日(ユリウス暦:1404年4月12日)叙従三位。
正三位・非参議。
山科 教興(本名教清)
[ ? 〜 応永25年7月19日(ユリウス暦:1418年8月20日) ]
教言三男。母橘知任女。
応永18年2月21日(ユリウス暦:1411年3月15日)叙従三位。
従二位・権中納言。
※本名は、尊卑分脈による。
山科 教有(改名行有)
[ ? 〜 永享2年4月2日(ユリウス暦:1430年4月24日) ]
教冬男。
応永30年正月5日(ユリウス暦:1423年2月15日)叙従三位。
正三位・非参議。
山科 教豊(改名家豊)
[ ? 〜 永享3年正月4日(ユリウス暦:1431年2月16日) ]
教興男。
応永32年正月5日(ユリウス暦:1425年1月24日)叙従三位。
正三位・参議。
山科 繁右(本名教右)
[ ? 〜 寛正2(1461)年 ]
教繁男。
永享10年9月4日(ユリウス暦:1438年9月23日)叙従三位。
享徳4(1455)年2月出家。
従二位・非参議。
※本名は、尊卑分脈による。系図纂要は一に繁右、後家右とある。
山科 持俊
[ 生没年不明 ]
教冬男。
文安3年2月4日(ユリウス暦:1446年3月1日)叙従三位。
文明2(1470)年以降、不見。
正二位・権中納言。
山科 保宗
[ 応永18(1411)年 〜 寛正4年8月26日(ユリウス暦:1463年10月8日) ]
教繁男。
文安5年6月11日(ユリウス暦:1448年7月11日)叙従三位。
正二位・参議。
※尊卑分脈によれば、教遠男。
山科 顕言(本名成任)
[ 正長元(1428)年 〜 寛正3年5月8日(ユリウス暦:1462年6月5日) ]
家豊男。法名・常継。
宝徳4年4月17日(ユリウス暦:1452年5月6日)叙従三位。
正三位・権中納言。
※本名は、尊卑分脈による。
山科 言国
[ 享徳元(1452)年?月23日 〜 文亀3年2月28日(ユリウス暦:1503年3月26日) ]
顕言男(実山科保宗男)。道号・説堂〔系図纂要作説蕚〕。法名・盛言。
文明16年10月11日(ユリウス暦:1484年10月30日)叙従三位。
従二位・権中納言。
山科 言綱
[ 文明18年4月1日(ユリウス暦:1486年5月4日) 〜 享禄3年9月12日(ユリウス暦:1530年10月3日) ]
言国男。母高倉永継女。法名・宗言〔系図纂要作龍雲院宗言〕。
永正15年6月26日(ユリウス暦:1518年8月2日)叙従三位。
従二位・権中納言。
山科 言継
[ 永正4年4月26日(ユリウス暦:1507年6月6日) 〜 天正7年3月2日(ユリウス暦:1579年3月28日) ]
言綱男。母女嬬。道号・月岑。法名・照言〔系図纂要作華岳院月岑晴言〕。
天文6年5月22日(ユリウス暦:1537年6月29日)叙従三位。
正二位・権大納言。
※尊卑分脈内麿公孫常住院坊官系図によれば、外祖母は、亮快女。
山科 言経
[ 天文12年7月2日(ユリウス暦:1543年8月2日) 〜 慶長16年2月27日(1611年4月10日) ]
言継男。母葉室頼継女。法名・白言〔系図纂要作岳春院唯月〕。
元亀元年5月26日(ユリウス暦:1570年6月29日)叙従三位。
天正15(1587)年勅勘を被る。
天正16(1588)年から慶長2(1597)年まで不見。
正二位・権中納言。
山科 言緒
[ 天正5年2月21日(ユリウス暦:1577年3月10日) 〜 元和6年2月25日(1620年3月28日) ]
言経男。母上冷泉為益女。韶景院覚夢空言〔系図纂要〕
元和3年正月5日(1617年2月10日)叙従三位。
従三位・参議。
山科 言総
[ 慶長8(1603)年 〜 寛文元年11月27日(1662年1月17日) ]
言緒男。清陽院天真〔系図纂要〕
寛永13年正月5日(1636年2月11日)叙従三位。
正二位・権大納言。
山科 言行
[ 寛永9年10月22日(1632年12月3日) 〜 寛文5年4月25日(1665年6月8日) ]
言総男(実藤谷為賢男)。母中御門宣衡女〔知譜拙記・系図纂要〕
龍光院覚了姓言〔系図纂要〕
万治2年正月5日(1659年2月26日)叙従三位。
正三位・参議。
山科 持言
[ 明暦3年11月22日(1657年12月26日) 〜 元文2年8月7日(1737年9月1日) ]
言行男。母家女房。高寿院量誉覚山道言〔系図纂要〕
貞享2年7月10日(1685年8月9日)叙従三位。
従三位・参議。
山科 堯言
[ 貞享3年2月3日(1686年2月25日) 〜 宝暦元年12月5日(1752年1月20日) ]
持言男。母家女房。法雲院透誉徹岸堯言〔系図纂要〕
享保3年6月4日(1718年7月1日)叙従三位。
正二位・権大納言。
山科 師言(改名頼言)
[ 享保7年正月6日(1722年2月21日) 〜 明和7年12月22日(1771年2月6日) ]
堯言男。母家女房。法名・徹紹〔系図纂要作安養院還誉徹紹頼言〕。
寛延3年10月26日(1750年11月24日)叙従三位。
明和5年2月13日(1768年3月31日)出家。
正二位・権中納言。
山科 敬言
[ 寛保2年3月19日(1742年4月23日) 〜 安永7年2月3日(1778年3月1日) ]
頼言男。母梅園久季女。後雲芳院等誉徹阿敬言〔系図纂要〕
宝暦14年正月5日(1764年2月6日)叙従三位。
従二位・権中納言。
公卿補任尻付
寛保2年3月19日(1742年4月23日)誕生。
延享2年3月22日(1745年4月23日)従五位下。
寛延2年9月24日(1749年11月3日)元服昇殿。
同日内倉頭従五位上。
宝暦2年3月17日(1752年4月30日)正五位下(去正廿一分)。
宝暦5年3月3日(1755年4月14日)従四位下。
宝暦8年正月12日(1758年2月19日)右権少将(頭如元)。
同16日拝賀。
同5月7日従四位上。
宝暦11年正月24日(1761年2月28日)左権中将(頭如元)。
3月15日正四位下(去正五宣)。
山科 忠言
[ 宝暦12年後4月19日(1762年6月11日) 〜 天保4年2月26日(1833年4月15日) ]
敬言男。母上冷泉為村女。邁種徳院〔系図纂要〕
天明7年12月19日(1788年1月26日)叙従三位。
従一位・権大納言。
公卿補任尻付
宝暦12年後4月19日(1762年6月11日)誕生。
明和元年12月15日(1765年1月6日)叙爵。
安永3年11月25日(1774年12月27日)元服昇殿。
同日内蔵頭従五位上。
安永6年12月19日(1778年1月17日)正五位下。
安永7年2月3日(1778年3月1日)服解(父)。
同年3月23日除服出仕復任。
安永8年3月24日(1779年5月10日)従四位下。
同年5月4日左権少将(内蔵頭如旧。小除目)。
同年6月1日奏慶。
安永10年3月17日(1781年4月10日)右権中将(内蔵頭如旧)。
同年4月26日奏慶。
同年12月29日従四位上。
天明4年正月8日(1784年1月29日)正四位下。
山科 言知
[ 寛政2年2月26日(1790年4月10日) 〜 慶応3年10月27日(1867年11月22日) ]
忠言男。母家女房。
文化9年12月19日(1813年1月21日)叙従三位。
正二位・権大納言。
山科 言成
[ 文化8年6月28日(1811年8月16日) 〜 明治3年閏10月3日(1870年11月25日) ]
言知男(実徳大寺公迪二男)。母家女房。
北小路師光女賀。
天保12年12月6日(1842年1月17日)叙従三位。
明治元年時、正二位・前権中納言。
山科 言縄
[ 天保6年6月20日(1835年7月15日) 〜 大正5(1916)年11月6日 ]
言成男。母家女房。夫人野宮定祥長女祥子〔現代華族譜要〕
慶応2年3月10日(1866年4月24日)叙従三位。
明治元年時、従三位・非参議。
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※最終更新日 2017.09.24
羽林家家系別分類表


南家高倉(藪)流
3家
※南家高倉流は、閑院家に従属。
中御門家
9家
花山院家
5家
四条家
7家
(園池⇒櫛笥庶流だが公屋が正親町三条実昭の猶子となった為、以降、閑院家となる。)
 四条家庶流大綱略系図
御子左家
4家
水無瀬家
5家
高倉家
2家

村上源氏
8家
宇多源氏
3家