系図は、本朝皇胤紹運録を基本とした。〔〕書きで出典が書かれていない事項は、本朝皇胤紹運録
に記載されたもの。
纂輯御系図、皇親系、詰所系図(系図綜覧所収執次詰所御系譜)、系図纂要との異同を校訂した。
紙幅の関係上、一部省略している事項もある。
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生年
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建暦2年2月18日(ユリウス暦:1212年3月22日)
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没年
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天福2年8月6日(ユリウス暦:1234年8月31日)
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異称
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茂仁。
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父
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後高倉天皇(守貞親王)。
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母
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持明院基家女陳子(北白河院)。
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配偶者
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皇后
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藤原有子
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安喜門院。法名真清浄。三条公房女。
母藤原範能女〔女院小伝・皇親系作従三位範季女従二位修子〕。
従三位。
承元元(1207)年生。
嘉禄3年2月20日(ユリウス暦:1227年3月9日)院号。 弘安9年2月6日(ユリウス暦:1286年3月2日)薨。
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藤原長子
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鷹司院。法号蓮華性〔女院小伝〕。近衛家実女。母藤原季信女。
建保6(1218)年生。 嘉禄2年6月16日(ユリウス暦:1226年7月11日)叙従三位〔女院記4月16日〕。
同年6月19日入内。7月2日女御。29日中宮。
寛喜元年4月18日(ユリウス暦:1229年5月12日)院号。
寛元4年4月20日(ユリウス暦:1246年5月7日)為尼蓮華性。
文永12年2月11日(ユリウス暦:1275年3月9日)崩。
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藤原竴子
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藻璧門院。九条道家女。母西園寺公経女。
承元3(1209)年生。 寛喜元年11月3日(ユリウス暦:1229年11月20日)叙従三位〔女院小伝〕。23日為女御。
寛喜2年2月16日(ユリウス暦:1230年3月31日)為中宮。
貞永元年4月4日(ユリウス暦:1232年4月25日)院号〔女院小伝貞永2年4月3日(ユリウス暦:1233年5月13日)〕。
天福元年9月18日(ユリウス暦:1233年10月22日)薨。
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典侍
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藤原氏
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九条兼良女。称新大納言〔類聚大補任作権大納言局〕。
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典侍
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藤原氏
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持明院家行女。母藤原定能女。称別当典侍。
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在位
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承久3年7月9日(ユリウス暦:1221年7月29日)〜貞永元年10月4日(ユリウス暦:1232年11月17日)
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皇居
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平安宮。
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陵名
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観音寺陵。
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- 本サイトの公卿に関するデータは、
東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館。 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
系図纂要(名著出版)
を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。
知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
- 菩提寺・居所に関しては、
雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕と
公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
を基本としました。
家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
実地調査はおこなっておりません。
- 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。
- 家紋に関しては、
雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
- 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、
その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。
ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。
ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。
和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。
西暦への変換に関しては、和暦の各月の大小の値を
「日本暦日原典」内田正男/著に従って、算出したものです。
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父母名などを表記する場合、公卿に関しては、官位官職、卿・公の尊称は省略しました。
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