公卿類別譜
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天皇系図
〔一条天皇〜仲恭天皇〕
天皇系図索引
系図は、本朝皇胤紹運録を基本とした。〔〕書きで出典が書かれていない事項は、本朝皇胤紹運録 に記載されたもの。
纂輯御系図、皇親系、詰所系図(系図綜覧所収執次詰所御系譜)、系図纂要との異同を校訂した。
紙幅の関係上、一部省略している事項もある。
第66代
一条天皇
生没年
天元3年6月1日(ユリウス暦980年7月15日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
〜
寛弘8年6月22日(ユリウス暦1011年7月25日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
異称
懐仁
〔皇代畧記・系図纂要〕
。精進覚
〔皇代畧記・系図纂要〕
。妙覚。
父
円融天皇。
母
藤原兼家
女詮子〔東三条院〕。
配偶者
皇后
藤原定子
藤原道隆
女。母
高階成忠
女貴子
〔尊卑分脈作高階業忠女有子〕
。
長保2年12月15日(ユリウス暦:1001年1月12日)崩御
〔系図纂要。大鏡裏書作16日〕
。
藤原彰子
上東門院。号東北院。
藤原道長
女。母
源雅信
女従一位倫子。
永延2(988)年生。
長保元年2月11日(ユリウス暦:999年3月1日)叙従三位。11月1日入内。 11月7日為女御
〔大鏡裏書作6日〕
。
長保2年2月15日(ユリウス暦:1000年3月23日)為中宮
〔大鏡裏書作25日〕
。
寛弘9年2月14日(ユリウス暦:1012年3月9日)為皇太后。
寛仁2年10月16日(ユリウス暦:1018年11月26日)為太皇太后
〔大鏡裏書作正月7日〕
。
万寿3年正月19日(ユリウス暦:1026年2月9日)為尼。法名清浄覚。同日院号。
承保元年10月3日(ユリウス暦:1074年10月25日)崩於法成寺阿弥陀堂
〔大鏡裏書・女院小伝・女院記による。尊卑分脈作2日〕
。
同6日火葬大谷口本院
〔大鏡裏書〕
。
藤原義子
※皇代記・尊卑分脈等による。
藤原公季
女。母
有明親王
女。従二位。
弘徽殿。 天延2(974)年生。万寿3年12月18日(ユリウス暦:1027年1月28日)出家。
天喜元年閏7月7日(ユリウス暦:1053年8月23日)薨。
女御
藤原尊子
※皇代記・尊卑分脈等による。藤原道兼女。母藤原師輔女繁子。後、藤原通任室。
藤原元子
※皇代記・尊卑分脈等による。藤原顕光女。母村上天皇皇女盛子内親王
〔本朝皇胤紹運録〕
。 従一位。承香殿。後、源頼定室。
※皇代記には、この他に藤原兼家女尚侍縷子の名がある。
在位
寛和2年6月23日(ユリウス暦986年8月1日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
〜
寛弘8年6月13日(ユリウス暦1011年7月16日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
皇居
平安宮。
陵名
円融寺北陵
〔皇代畧記作、安置御骨於円城寺。系図纂要作、寛弘8年7月8日葬于長坂野、安置御骨於円成寺〕
。
一条天皇系図
一条天皇
敦康親王
*1
嫄子女王
(母
具平親王
女〔皇親系〕。
藤原頼通
為子。後朱雀院中宮。正四位下。
長和5(1016)年生。長元10(1037)年立為中宮〔皇親系〕。
長暦3年8月28日(ユリウス暦:1039年9月19日)崩)
後一条天皇
後朱雀天皇
脩子内親王
(一品。准后。母藤原道隆女皇后定子。
長徳2年12月16日(ユリウス暦:997年1月27日)生〔皇親系〕。
万寿元(1024)年落飾〔皇親系〕。永承4年2月7日(ユリウス暦:1049年3月13日)薨)
媄子内親王
(母同上。長保2年生〔皇親系作12月15日(ユリウス暦:1001年1月12日)〕。
寛弘5年5月25日(ユリウス暦:1008年6月30日)薨)
*1
敦康親王 母藤原道隆女皇后定子。一品。式部卿。長保元年12月7日(ユリウス暦:1000年1月16日)生〔中宮御産部類記による。皇親系作11月6日〕。寛仁2年12月17日(ユリウス暦:1019年1月25日)薨。
三条天皇[67]
三条源氏系図
第68代
後一条天皇
生没年
寛弘5年9月11日(ユリウス暦1008年10月12日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
〜
長元9年4月17日(ユリウス暦1036年5月15日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
異称
敦成
〔皇代畧記〕
。
父
一条天皇。
母
藤原道長
女彰子(上東門院)。
配偶者
中宮
藤原威子
藤原道長女。母源雅信女従一位倫子。従二位。号藤壺。
在位
長和5年正月29日(ユリウス暦1016年3月10日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
〜
長元9年4月17日(ユリウス暦1036年5月15日)
〔皇代畧記〕
長和5年2月7日(ユリウス暦1016年3月18日)即位
〔皇代畧記・系図纂要〕
。
皇居
平安宮。
陵名
菩提樹院陵
〔皇代畧記作、御骨暫安置浄土寺。系図纂要作、葬于浄土寺西原〕
。
後一条天皇系図
後一条天皇
二条院
(章子内親王。一品。准后。
後冷泉
皇后。母藤原道長女中宮威子。
万寿3年11月9日(ユリウス暦:1026年12月20日)生
〔月日は女院記による。皇親系作12月9日〕。
延久6年6月16日(ユリウス暦:1074年7月12日)院号。
長治2年9月17日(ユリウス暦:1105年10月26日)崩御〔女院記14日〕)
馨子内親王
(二品。斎院。後三条皇后。号西院皇后。母同。
長元2(1029)年生〔皇親系作2月2日〕。
寛治7年9月4日(ユリウス暦:1093年9月26日)崩)
第69代
後朱雀天皇
生没年
寛弘6年11月25日 [
ユリウス暦
1009年12月14日]
〔皇代畧記・系図纂要〕
〜
寛徳2年正月18日 [
ユリウス暦
1045年2月7日]
〔皇代畧記・系図纂要〕
異称
敦良
〔皇代畧記・系図纂要〕
。精進行
〔系図纂要〕
。
父
一条天皇。
母
藤原道長女彰子(上東門院)。
配偶者
皇后
禎子内親王
陽明門院。三条天皇皇女。母藤原道長女妍子。乳母加賀守藤原順時女弁乳母
〔大鏡裏書〕
。長和元(1012)年生〔女院記作長和2年7月6日(ユリウス暦:1013年8月15日)。 女院小伝作長和4(1015)年〕。治暦5年2月17日(ユリウス暦:1069年3月12日)院号。寛治8年正月16日(ユリウス暦:1094年2月3日)崩。
藤原嬉子
藤原道長四女。母源雅信女従一位倫子。贈皇太后
〔尊卑分脈〕
。
寛仁2年11月15日(ユリウス暦:1018年12月24日)任尚侍
〔大鏡裏書〕
。
寛仁3年3月4日(ユリウス暦:1019年4月11日)叙従三位
〔大鏡裏書〕
。
治安元[寛仁5]年2月1日(ユリウス暦:1021年3月16日)入太子宮
〔大鏡裏書〕
。
万寿2年8月5日(ユリウス暦:1025年8月30日)卒
〔皇親系附録〕
。
同15日葬送船岡西。同29日贈正一位
〔大鏡裏書〕
。
寛徳2年8月11日(ユリウス暦:1045年9月24日)贈皇太后宮
〔大鏡裏書〕
。
中宮
嫄子
敦康親王女。宇治殿
〔藤原頼通〕
為子。長和5(1016)年生。長暦3年8月28日(ユリウス暦:1039年9月19日)崩。
藤原延子
藤原頼宗女。
藤原生子
藤原教通女。号梅壺女御
〔系図纂要〕
。治暦4(1068)年薨
〔系図纂要〕
。
在位
長元9年4月17日(ユリウス暦1036年5月15日)
〔皇代畧記・系図纂要〕
〜
寛徳2年正月18日(ユリウス暦1045年2月7日)
〔皇代畧記・系図纂要作、寛徳2年正月16日譲位〕
皇居
平安宮。
陵名
円乗寺陵
〔皇代畧記作、葬高瀧寺、御骨安置円教寺。系図纂要作、火葬于高隆寺乾原、置御骨於円教寺〕
。
後朱雀天皇系図
後朱雀天皇
後冷泉天皇
後三条天皇
良子内親王
(一品。斎宮。准三后。母禎子内親王。長暦3(1039)年生〔皇親系作
長元2年12月13日(ユリウス暦:1030年1月19日)〕。
承保4年8月26日(ユリウス暦:1077年9月15日)薨)
娟子内親王
(斎院。母同。号彺斎院。源俊房室。長元5(1032)年生〔皇親系作
9月13日(ユリウス暦:1032年10月19日)〕。
康和5年3月薨〔皇親系作12日(ユリウス暦:1103年4月20日)〕)
祐子内親王
(三品。准三宮。母敦康親王女中宮嫄子。
長暦2年4月21日(ユリウス暦:1038年5月27日)生〔皇親系〕。
長治2年11月8日(ユリウス暦:1105年12月16日)薨)
禖子内親王
(斎院。号六条斎院。母同。
長暦3年8月19日(ユリウス暦:1039年9月10日)生〔皇親系〕。
嘉保3年9月薨〔皇親系作13日(ユリウス暦:1096年10月1日)〕)
正子内親王
(斎院。号押小路斎院。母藤原頼宗女延子。寛徳3(1046)年4月〔皇親系〕。
永久2年8月20日(ユリウス暦:1114年9月20日)薨〔皇親系〕)
第70代
後冷泉天皇
生没年
万寿2年8月3日 [
ユリウス暦
1025年8月28日]
〜
治暦4年4月19日 [
ユリウス暦
1068年5月22日]
異称
親仁。
父
後朱雀天皇。
母
藤原道長四女嬉子。
配偶者
皇后
章子内親王
二条院。後一条天皇皇女。母藤原道長女中宮威子。
万寿3年11月9日(ユリウス暦:1026年12月20日)生〔月日は女院記による〕。
延久6年6月16日(ユリウス暦:1074年7月12日)院号。
長治2年9月17日(ユリウス暦:1105年10月26日)崩御〔女院記14日〕。
藤原寛子
※皇代記等による。
藤原頼通
女。 母藤原頼成女贈従二位祇子。永承5年12月23日(ユリウス暦:1051年2月6日)為女御。号四条宮。
藤原歓子
藤原教通女。母藤原公任女。号小野皇后。
※諸本によると、この他に僧増守女〔菅原氏〕がいる。
在位
寛徳2年正月16日 [
ユリウス暦
1045年2月5日]
〜
治暦4年4月19日 [
ユリウス暦
1068年5月22日]
皇居
平安宮。
陵名
円教寺陵。
後冷泉天皇系図
後冷泉天皇
皇子
(*纂輯御系図による。母藤原教通女歓子。
永承4年3月14日(ユリウス暦:1049年4月18日)生〔皇親系〕)
後三条天皇[71]
後三条源氏系図
第72代
白河天皇
生没年
天喜元年6月19日 [
ユリウス暦
1053年7月7日]
〜
大治4年7月7日 [
ユリウス暦
1129年7月24日]
異称
貞仁。融観。六条帝。
父
後三条天皇。
母
藤原公成女茂子。
配偶者
藤原賢子
源顕房女。藤原師実養女
〔女院小伝〕
。母源隆俊女隆子。
藤原道子
藤原能長女。源済政女。
典侍
藤原経子
藤原経平女。
源師子
源顕房女。母源隆俊女隆子。後、藤原忠実室。
藤原師兼女
藤原季実女
源盛子
源頼綱朝臣女。
源政長女。
源有宗女。
在位
延久4年12月8日 [
ユリウス暦
1073年1月18日]
〜
応徳3年11月26日 [
ユリウス暦
1087年1月3日]
皇居
平安宮。
陵名
成菩提院陵。
白河天皇系図
白河天皇
敦文親王
(母藤原師実養女中宮賢子〔実源顕房女〕。無品。
承保元年12月26日(ユリウス暦:1075年1月15日)生。
承保4年8月6日(ユリウス暦:1077年8月26日)薨)
堀河天皇
覚行法親王
(本名覚恵、又覚念〔皇親系・仁和寺御室系譜〕。仁和寺。
三品〔仁和寺御室系譜作二品〕。号中御室。母藤原経平女典侍経子。
承保2(1075)年生〔仁和寺御室系譜・皇親系作4月〕。
長治2年11月18日(ユリウス暦:1105年12月26日)入滅)
覚法法親王
(本名真行〔仁和寺御室系譜作本名行真又改真行〕。次行真〔皇親系作行信〕。
二品。仁和寺。号高野御室。母源顕房女師子。
寛治6(1092)年生〔仁和寺御室系譜・皇親系作
寛治5年12月29日(ユリウス暦:1092年2月9日)〕。
仁平3年12月6日(ユリウス暦:1153年12月22日)薨)
聖恵法親王
(仁和寺。無品〔皇親系作二品〕。号花蔵院宮。又号長尾宮〔皇親御事蹟〕。
母藤原師兼女。嘉保元(1094)年生。
大治2年3月19日(ユリウス暦:1127年5月2日)叙三品〔皇親御事蹟〕。
長承元年9月21日(ユリウス暦:1132年10月31日)牛車宣下〔皇親御事蹟〕。
保延3年2月8日(ユリウス暦:1137年3月1日)入滅〔皇親系作11日〕)
媞子内親王
(郁芳門院。堀河天皇准母。斎宮。准三后。母同堀河院。
承保3(1076)年生〔皇親系作4月6日(ユリウス暦:1076年5月11日)〕。
寛治7年正月19日(ユリウス暦:1093年2月17日)院号。
嘉保3年8月7日(ユリウス暦:1096年8月27日)崩)
善子内親王
(斎宮。准三宮。無品。号六角斎宮。母藤原能長女道子。
承暦元 [承保4] 年生〔皇親系作9月14日(ユリウス暦:1077年10月3日)〕。
長承元年12月1日(ユリウス暦:1133年1月8日)薨)
令子内親王
(賀茂斎院。准三后。皇后鳥羽准母。母同堀河院。
承暦2年5月5日(ユリウス暦:1078年6月17日)生〔皇親系〕。
天養元年4月21日(ユリウス暦:1144年5月25日)崩)
禎子内親王
(又禛子。賀茂斎院。准三宮。母同。
永保元年生〔皇親系作4月17日(ユリウス暦:1081年5月28日)〕。
久寿3年正月5日(ユリウス暦:1156年1月28日)薨)
恂子内親王
(一云侚子。斎宮。号樋口斎宮。母木工頭藤原季実朝臣女。
長承元年10月16日(ユリウス暦:1132年11月25日)薨〔皇親系作15日〕)
官子内親王
(賀茂斎院。号清和院斎院。母源頼綱朝臣女盛子)
行慶
(法務大僧正。号狛僧正・桜井。三井長吏。母備中守源政長女)
円行
(園城寺。法眼。行尊弟子。母陸奥守源有宗女)
静澄
(或静証、系図綜覧作静修。園城寺。居羅惹院。隆明弟子)
源 有仁
(※皇親系による。実輔仁親王第二子)
守子内親王
(※皇親系による。猶子。実輔仁親王第一女)
怡子内親王
(※皇親系による。猶子。実輔仁親王第二女)
第73代
堀河天皇
生没年
承暦3年7月9日(ユリウス暦:1079年8月8日)〜嘉承2年7月19日(ユリウス暦:1107年8月9日)
異称
善仁。
父
白河天皇。
母
藤原師実養女賢子(実源顕房女)。
配偶者
皇后
篤子内親王
後三条天皇
皇女。母
藤原公成
女茂子。
藤原苡子
本朝皇胤紹運録・纂輯御系図作茨子。藤原実季女。母藤原経平女睦子。 贈皇太后。
藤原時経女
源仁子
白川康資王女。
藤原隆宗女
在位
応徳3年11月26日(ユリウス暦:1087年1月3日)〜嘉承2年7月19日(ユリウス暦:1107年8月9日)
皇居
平安宮。
陵名
後円教寺陵。
堀河天皇系図
堀河天皇
鳥羽天皇
最雲法親王
(無品。延暦寺。天台座主。法務。権僧正。梶井。母伊勢守藤原時経女。
長治元(1104)年生〔皇親系作康和元(1099)年〕。
応保2年2月6日(ユリウス暦:1162年2月21日)薨〔皇親系作16日〕)
悰子内親王
(賀茂斎院。母白川康資王女仁子。号大宮斎院。康和元(1099)年生。
保安4(1123)年8月卜定。
応保2年11月3日(ユリウス暦:1162年12月10日)日薨)
喜子内親王
(仁平元(1151)年為内親王。斎宮)
懐子内親王
寛暁
(仁和寺花蔵院。東大寺別当。大僧正。母近江守藤原隆宗女。実助大僧正弟子。
康和5(1103)年生〔仁和寺諸院家記・皇親御事蹟〕。
平治元 [保元4] 年正月8日(ユリウス暦:1159年1月28日)
入滅〔仁和寺諸院家記・僧綱補任抄出下〕)
第74代
鳥羽天皇
生没年
康和5年正月16日(ユリウス暦:1103年2月24日)〜保元元年7月2日(ユリウス暦:1156年7月20日)
異称
宗仁。法名空覚。
父
堀河天皇。
母
藤原実季女苡子。
配偶者
皇后
藤原璋子
待賢門院。藤原公実女。本朝謚号雑記によれば白河院猶子。
母藤原隆方女従二位光子。法名真如法〔女院小伝・女院記〕。
康和5(1103)年生
〔女院記によるが、 没年齢44から計算すると康和4(1102)年生。女院小伝は没年齢は45、或46。 本朝謚号雑記は没年齢46〕
。
永久5年12月1日(ユリウス暦:1117年12月25日)叙従三位。同17日為女御。同日着裳。
永久6年正月26日(ユリウス暦:1118年2月18日)為中宮。
天治元年11月24日(ユリウス暦:1124年12月31日)院号。
永治2年2月26日(ユリウス暦:1142年3月25日)仁和寺法金剛院にて出家。
久安元年8月22日(ユリウス暦:1145年9月10日)崩御
藤原泰子
元勳子。高陽院。藤原忠実女。母源顕房女従一位師子。
嘉保2(1095)年生。
長承2年6月19日(ユリウス暦:1133年7月22日)入上皇宮。
長承3年3月2日(ユリウス暦:1134年3月29日)従四位下准三宮。
長承3年3月19日(ユリウス暦:1134年4月15日)為皇后宮。改泰子。
保延5年7月28日(ユリウス暦:1139年8月24日)院号。
保延7年5月5日(ユリウス暦:1141年6月10日)為尼。清浄理。
久寿2年12月16日(ユリウス暦:1156年1月10日)崩御。
藤原得子
美福門院。藤原長実女。母源俊房女方子。
法名真性空
〔女院記。女院小伝作真性定・真浄空〕
。
永久5(1117)年生。
保延2年4月19日(ユリウス暦:1136年5月21日)叙従三位。
保延5年8月28日(ユリウス暦:1139年9月22日)女御
〔女院小伝による。女院記作27日〕
。
保延7年3月7日(ユリウス暦:1141年4月15日)准三后。
永治元年12月27日(ユリウス暦:1142年1月25日)為皇后宮。
久安5年8月3日(ユリウス暦:1149年9月6日)院号
〔女院小伝・女院記・本朝女后名字抄・本朝謚号雑記〕
。
保元元年6月12日(ユリウス暦:1156年7月1日)鳥羽離宮にて出家。
永暦元年11月23日(ユリウス暦:1160年12月22日)崩御
〔女院小伝による。女院記12月23日〕
。
美濃局
八幡別当紀光清女。初侍白河天皇後為更衣
〔皇親系〕
。
三条局
藤原家政女。侍待賢門院。保延4(1138)年為河内守俊賢子成賢所殺
〔皇親系〕
。
春日殿
藤原実能女
〔皇親系作養女〕
。美福門院侍女。
藤原実衡女
橘俊綱女
在位
嘉承2年7月19日(ユリウス暦:1107年8月9日)〜保安4年正月28日(ユリウス暦:1123年2月25日)
皇居
平安宮。
陵名
安楽寿院陵。
鳥羽天皇
崇徳天皇
通仁親王
(母同。
大治元年5月28日(ユリウス暦:1126年6月20日)生〔系図纂要。皇親系作3月28日〕。
大治4年閏7月10日(ユリウス暦:1129年8月26日)薨〔系図纂要・皇親系〕)
君仁親王
(号痿王。母同。
天治2年5月24日(ユリウス暦:1125年6月27日)生〔皇親系による。系図纂要は
大治2(1127)年5月24日生とあるが没年齢は19歳で、逆算すると天治2(1125)年〕。
康治2年10月19日(ユリウス暦:1143年11月27日)薨)
後白河天皇
本仁親王
(仁和寺。二品。法名信法、改覚性。号紫金台寺御室、又泉殿。母同崇徳。
大治4年閏7月20日(ユリウス暦:1129年9月5日)生〔月日は仁和寺御室系譜・
系図纂要による〕。嘉応元年12月11日(ユリウス暦:1169年12月30日)寂)
近衛天皇
道恵法親王
(園城寺長吏。号法輪寺。母八幡別当紀光清女美濃局。
長承元(1132)年生〔或長承2〕。
仁安3年4月25日(ユリウス暦:1168年6月2日)入滅)
覚快法親王
(本名円性。天台座主。号法性寺座主。母同。
長承3(1134)年生。養和元年11月6日(ユリウス暦:1181年12月13日)入滅)
最忠法親王
(歴代皇后人物系譜総覧によれば母は同崇徳〔纂輯御系図作母不詳〕。延暦寺。無品)
禧子内親王
(斎院。号一品宮。母同崇徳。保安3(1122)年生〔没年齢12歳から逆算。系図纂要作
没年齢13歳。皇親系作保安3年6月27日(ユリウス暦:1122年8月1日)生〕。
長承2年10月10日(ユリウス暦:1133年11月8日)薨)
統子内親王
(本名恂子。上西門院。斎院。法名真如理。母同。
大治元(1126)年生。保元4年2月13日(ユリウス暦:1159年3月4日)院号。
文治5年7月20日(ユリウス暦:1189年9月2日)崩)
妍子内親王
(斎宮。号吉田斎宮。母藤原家政女三条局 。
応保元年10月3日(ユリウス暦:1161年10月23日)薨)
叡子内親王
(母同近衛)
暲子内親王
(八条院。母同。法名金剛観〔女院小伝・本朝女后名字抄〕。保延3(1137)年
〔女院記係4月8日〕生。応保元年12月16日(ユリウス暦:1162年1月3日)院号。
建暦元年6月26日(ユリウス暦:1211年8月6日)薨)
妹子内親王
(一云姝子〔纂輯御系図〕。高松院。母同。二条院后。法名実相覚〔女院小伝。
本朝女后名字抄作実相観〕。永治元(1141)年〔女院記係11月8日〕生。
応保2年2月5日(ユリウス暦:1162年2月20日)院号。
安元2年6月13日(ユリウス暦:1176年7月20日)薨)
頌子内親王
(斎院。母藤原実能女春日殿。久安元(1145)年生。
承元2年9月18日(ユリウス暦:1208年10月29日)薨)
皇女
(阿夜御前。号双林〔或、輪〕寺宮。賀陽宮〔*一代要記。紹運録作高陽院宮〕。母同道恵)
皇女
(高松宮。母藤原実衡女)
道果法親王
(*一代要記。母同道恵)
真誉
(僧。母橘俊綱女。*纂輯御系図)
第75代
崇徳天皇
生没年
元永2年5月28日(ユリウス暦:1119年7月7日)〜長寛2年8月26日(ユリウス暦:1164年9月14日)
異称
顕仁。讚岐院。
父
鳥羽天皇。
母
藤原公実女璋子(待賢門院)。
配偶者
皇后
藤原聖子
皇嘉門院。
藤原忠通
女。母
藤原宗通
女従三位宗子。
法名清浄恵〔女院小伝。本朝女后名字抄作蓮覚〕。
保安3(1122)年生〔没年齢60より逆算したが、女院記は保安2(1121)年生とある〕。
大治3年11月8日(ユリウス暦:1128年12月1日)叙従三位
〔女院小伝によるが、女院記作9日〕
。
大治4年正月9日(ユリウス暦:1129年1月30日)入内。同16日為女御。
大治5年2月21日(ユリウス暦:1130年4月1日)為中宮。
永治元年12月27日(ユリウス暦:1142年1月25日)為皇太后。
久安6年2月27日(ユリウス暦:1150年3月27日)院号。
保元元年10月11日(ユリウス暦:1156年11月25日)垂尼。
長寛元年12月26日(ユリウス暦:1164年1月21日)九条亭にて出家。
養和元年12月5日(ユリウス暦:1182年1月11日)崩御
〔女院小伝・皇親系によるが、女院記作8日〕
。
兵衛佐
源行宗養女〔実法勝寺執行法印信縁女〕。
源師経女
在位
保安4年正月28日(ユリウス暦:1123年2月25日)〜永治元年12月7日(ユリウス暦:1142年1月5日)
皇居
平安宮。
陵名
白峯陵。
崇徳天皇
重仁親王
(二品〔皇親系作三品〕。法名空性。母源行宗養女〔実法勝寺執行法印信縁女〕兵衛佐。
保延6年生〔皇親系作9月2日(ユリウス暦:1140年10月14日)〕。
応保2年正月28日(ユリウス暦:1162年2月13日)薨)
覚恵
(本名元性。東寺。法印。華蔵院。号宮法印。母三河〔或権〕守源師経女。
※皇親系・皇親御事蹟によれば、第五皇子)
第76代
近衛天皇
生没年
保延5年5月18日(ユリウス暦:1139年6月16日)〜久寿2年7月23日(ユリウス暦:1155年8月22日)
異称
体仁。
父
鳥羽天皇。
母
藤原長実女得子(美福門院)。
配偶者
皇后
藤原多子
藤原公能女
〔皇親系附録〕
。
藤原頼長養女
〔皇親系附録。尊卑分脈作藤原頼長女〕
。
母従三位藤原豪子
〔皇親系附録。尊卑分脈作権中納言[藤原]俊忠女〕
。
保延7(1141)年生
〔※系図纂要・皇親系附録の没年齢62歳から逆算〕
。
叙従三位
〔皇親系附録。徳大寺家譜作久安4年〕
。
久安6年正月10日(ユリウス暦:1150年2月9日)入内(同19日為女御)
〔尊卑分脈〕
。
同年3月14日立為皇后
〔皇親系附録〕
。
保元3年2月2日(ユリウス暦:1158年3月4日)太皇太后
〔尊卑分脈〕
。
永暦元(1160)年更入二条院天皇宮
〔皇親系。尊卑分脈作永暦元年正月〕
。
建仁元年12月崩御
〔尊卑分脈による。系図纂要・皇親系作24日(ユリウス暦:1202年1月19日)62歳〕
。
藤原呈子
九条院。
藤原伊通
女。藤原忠通養女。母藤原顕隆女。保元3年2月3日(ユリウス暦:1158年3月5日)皇太后。 保安2年12月22日(ユリウス暦:1122年1月31日)生
〔女院記によるが、没年齢から計算すると天承元(1131)年生。 。尊卑分脈・女院小伝の出家年齢から計算すると 天承元(1131)年生。女院小伝の没年齢から計算すると保延元(1135)年生〕
。
久安6年2月16日(ユリウス暦:1150年3月16日)叙従三位。
同年4月21日入内。4月28日為女御。6月22日為中宮。
久寿2年8月15日(ユリウス暦:1155年9月13日)為尼清浄観。
保元元年10月27日(ユリウス暦:1156年12月11日)皇后宮。
保元3年2月3日(ユリウス暦:1158年3月5日)皇太后。
仁安3年3月14日(ユリウス暦:1168年4月23日)院号。
安元2年7月8日(ユリウス暦:1176年8月14日)崩。
在位
永治元年12月7日(ユリウス暦:1142年1月5日)〜久寿2年7月23日(ユリウス暦:1155年8月22日)
皇居
平安宮。
陵名
安楽寿院南陵。
※皇子女なし。
後白河天皇[77]
後白河天皇系図
第78代
二条天皇
生没年
康治2年6月17日(ユリウス暦:1143年7月30日)〜永万元年7月28日(ユリウス暦:1165年9月5日)
異称
守仁。
父
後白河天皇。
母
藤原経実女懿子。
配偶者
皇后
妹子内親王
一云姝子
〔纂輯御系図〕
。高松院。
鳥羽天皇
皇女。母藤原長実女得子〔美福門院〕。※鳥羽天皇系図を参照。
藤原育子
※皇代記等による。藤原
〔徳大寺〕
実能
女〔本朝皇胤紹運録作藤原忠通女。尊卑分脈は忠通養女〕。 母上総介源顕俊女俊子。
以下、尊卑分脈〔実能項〕による。
六条天皇養母。
久安3(1147)年生。
応保元年12月17日(ユリウス暦:1162年1月4日)入内。27日女御。
応保2年2月12日(ユリウス暦:1162年2月27日)立后〔或29日〕。
承安2年2月11日(ユリウス暦:1172年3月7日)皇后宮〔或12日〕。
承安3年8月15日(ユリウス暦:1173年9月23日)崩御〔或25日〕。
※〔或〕は尊卑分脈忠通項の日。
藤原多子
藤原
〔徳大寺〕
公能女。藤原頼長養女。母藤原俊忠女従三位豪子。近衛天皇皇后。保延6(1140)年生。 建仁元(1201)年12月崩御。
伊岐致遠女
本朝皇胤紹運録作伊岐善盛女。
中原師元女
源光成女
在位
保元3年8月11日(ユリウス暦:1158年9月5日)〜永万元年6月25日(ユリウス暦:1165年8月3日)
皇居
平安宮。
陵名
香隆寺陵。
二条天皇系図
二条天皇
六条天皇
僐子内親王
(本朝皇胤紹運録作繕子。一云僖子。母中原師元女。斎院。
永暦元(1160)年生〔皇親系〕。
嘉応3年2月29日(ユリウス暦:1171年4月6日)薨〔皇親系による。一作3月1日〕)
尊恵
(大僧都。号狛宮。母源光成女。
長寛2年生〔皇親系作7月22日(ユリウス暦:1164年8月11日)〕。
建久3年4月11日(ユリウス暦:1192年5月23日)入〔皇親系作10日〕。
号智恵光院〔皇親系〕)
第79代
六条天皇
生没年
長寛2年11月14日(ユリウス暦:1164年12月28日)〜安元2年7月17日(ユリウス暦:1176年8月23日)
異称
順仁。
父
二条天皇。
母
藤原実能養女育子、実伊岐致遠女 〔尊卑分脈によれば藤原忠通養女・実藤原実能女云々。 本朝皇胤紹運録によれば藤原忠通養女・実大蔵大輔伊岐善盛女とある。実父名は纂輯御系図によった〕。
配偶者
なし。
在位
永万元年6月25日(ユリウス暦:1165年8月3日)〜仁安3年2月19日(ユリウス暦:1168年3月30日)
皇居
平安宮。
陵名
清閑寺陵。
※皇子女なし。
第80代
高倉天皇
生没年
永暦2年9月3日(ユリウス暦:1161年9月23日)〜治承5年正月14日(ユリウス暦:1181年1月30日)
異称
憲仁。
父
後白河天皇。
母
平時信
女滋子(建春門院)。
配偶者
皇后
平徳子
平清盛
女。母平時信女時子。
久寿2(1155)年生〔皇親系作保元2(1157)年〕。
承安元年12月2日(ユリウス暦:1171年12月30日)叙従三位。
同14日入内。
同26日為女御。
承安2年2月10日(ユリウス暦:1172年3月6日)為中宮。
養和元年11月25日(ユリウス暦:1182年1月1日)院号。
寿永2年7月25日(ユリウス暦:1183年8月14日)赴西海。
元暦2年4月29日(ユリウス暦:1185年5月30日)帰京〔女院記26日〕。
元暦3年5月1日為尼真如覚〔※女院小伝によるが、元暦は2年まで〕。
建保元年12月13日(ユリウス暦:1214年1月25日)薨〔女院記2月19日〕。
藤原殖子
七条院。
藤原信隆
女。母贈正一位藤原休子。
按察典侍
藤原頼定女。
少将局
平義範女。
小督局
藤原成範
女。
帥局
藤原公重
朝臣女。治承3(1179)年正月卒。
在位
仁安3年2月19日(ユリウス暦:1168年3月30日)〜治承4年2月21日(ユリウス暦:1180年3月18日)
皇居
平安宮。
陵名
後清閑寺陵。
高倉天皇系図
高倉天皇
安徳天皇
後高倉天皇
*1
尊性法親王
(二品。延暦寺。妙法院。天台座主。号綾小路宮。
母藤原基家女陳子〔北白河院〕。建久5(1194)年生。
延応元年9月3日(ユリウス暦:1239年10月1日)薨)
道深法親王
(仁和寺。二品。母同。号金剛定院御室。
建永元年9月4日(ユリウス暦:1206年10月7日)生
〔仁和寺御室系譜・皇親系〕。
建長元年7月28日(ユリウス暦:1249年9月6日)薨)
後堀河天皇
利子内親王
(式乾門院。母同尊性。斎宮。四条院准母。
建久8(1197)年生。
嘉禄2年11月26日(ユリウス暦:1226年12月16日)為内親王。
同日伊勢斎宮。
寛喜元年4月2日(ユリウス暦:1229年4月26日)准三宮〔女院記〕。
貞永2年2月5日(ユリウス暦:1233年3月17日)退下〔類聚大補任作
貞永元年10月14日(ユリウス暦:1232年11月27日)下座、
貞永2年正月28日(ユリウス暦:1233年3月10日)帰京〕。
同 [天福元] 年6月20日(ユリウス暦:1233年7月28日)為皇后宮。
延応元年11月12日(ユリウス暦:1239年12月8日)為尼。
真性智。同日院号。
建長3年正月2日(ユリウス暦:1251年1月25日)崩御
〔女院記作建長2(1250)年〕)
邦子内親王
(安嘉門院。母同。後堀河院准母。承元3(1209)年生。
承久3年11月25日(ユリウス暦:1222年1月8日)為内親王。
承久10年2月1日為皇后宮〔※承久は4年まで。女院記作
承久3年12月1日(ユリウス暦:1222年1月14日)〕。
貞応3年8月4日(ユリウス暦:1224年9月18日)院号。
文暦2年5月14日(ユリウス暦:1235年6月1日)為尼。法名正如覚。
弘安6年9月4日(ユリウス暦:1283年9月26日)崩御)
能子内親王
(斎宮。号押小路宮。母同。正治2(1200)年生〔皇親系〕。
寛元3年9月24日(ユリウス暦:1245年10月16日)薨〔皇親系〕)
本子内親王
(母同)
有子内親王
惟明親王
*2
交野宮
*3
醍醐宮
※A
高桑宮
尾崎宮
万寿
栗野宮
尊雲
(延暦寺。大僧都〔皇親系作権大僧都〕。法印。居蓮実房)
聖海
(東大寺。大僧都。宮法印。醍醐座主。三宝院。法名聖真。
後鳥羽帝御猶子〔系図纂要・皇親系〕)
後鳥羽天皇
範子内親王
(坊門院。号六角宮。又土用宮。斎院。母藤原成範女小督局。
土御門天皇准母〔皇親系〕。
治承元年生〔皇親系作11月6日(ユリウス暦:1177年11月27日)〕。
治承2年6月27日(ユリウス暦:1178年7月14日)為内親王、
同日賀茂斎院〔女院小伝〕。
治承5年正月14日(ユリウス暦:1181年1月30日)退下
〔女院小伝。女院記作建久5(1194)年8月〕。
建久6年10月21日(ユリウス暦:1195年11月24日)准三宮〔女院記〕。
建久9年3月3日(ユリウス暦:1198年4月10日)為皇后宮〔女院小伝〕。
建永元年9月2日(ユリウス暦:1206年10月5日)院号〔女院小伝〕。
承元4年4月11日(ユリウス暦:1210年5月5日)
〔女院小伝・女院記・皇親系作12日〕崩御)
功子内親王
(無品。斎宮。母藤原公重朝臣女)
潔子内親王
(斎宮。母藤原頼定女。
文治元年11月15日(ユリウス暦:1185年12月8日)卜定〔類聚大補任〕。
建久9年正月17日(ユリウス暦:1198年2月24日)下座〔類聚大補任〕。
同8月23日(ユリウス暦:1198年9月25日)帰京〔類聚大補任〕)
道法親王
(※皇親系による。実後白河天皇子。
安元2年10月23日(ユリウス暦:1176年11月25日)為養子)
*1
後高倉天皇 二品〔皇親系作三品〕。守貞親王。法名行助。母藤原信隆女殖子〔七条院〕。安元2(1176)年生〔皇親系作治承3年2月28日(ユリウス暦:1179年4月6日)〕。貞応2年5月14日(ユリウス暦:1223年6月14日)薨。
*2
惟明親王 大炊御門宮。又号承安。母平義範女少将局。法名聖円。治承3(1179)年生。承久3年5月3日(ユリウス暦:1221年5月25日)薨。
*3
交野宮 円尊王〔系図纂要〕。称大智院宮〔系図纂要〕。
※A 皇親系によれば、交野宮の子は、大豊王と宗明王(為大豊王養子)。
また、公卿補任に雅明親王曾孫とある
●王
は、大豊王の子。
(●字⇒
)
第81代
安徳天皇
生没年
治承2年11月12日(ユリウス暦:1178年12月22日)〜寿永4 [元暦2] 年3月24日(ユリウス暦:1185年4月25日)
異称
言仁。
父
高倉天皇。
母
平清盛
女徳子(建礼門院)。
配偶者
在位
治承4年2月21日(ユリウス暦:1180年3月18日)〜寿永4 [元暦2] 年3月24日(ユリウス暦:1185年4月25日)
皇居
福原宮・平安宮。
陵名
阿弥陀寺陵。
※皇子女なし。
第82代
後鳥羽天皇
生没年
治承4年7月14日(ユリウス暦:1180年8月6日)〜延応元年2月22日(ユリウス暦:1239年3月28日)
異称
尊成。隠岐院。顕徳院。良然。金剛理。
父
高倉天皇。
母
坊門信隆女殖子(七条院)。
配偶者
皇后
藤原任子
宜秋門院。藤原
〔九条〕
兼実女。母藤原季行女従二位兼子。 従三位。中宮。法名清浄智。承安3年生〔女院記・皇親系。玉葉作9月23日(ユリウス暦:1173年10月31日)。女院小伝・女院記 の没年齢65歳から逆算すると承安4(1174)年生〕。 暦仁元年12月28日(ユリウス暦:1239年2月3日)薨。
昇子内親王〔春華門院〕母。
源在子
承明門院。法勝寺執行
能円
女〔藤原顕憲孫〕。母藤原範兼女従三位範子。源通親養女。 承安元(1171)年生〔女院記。女院小伝作作天治2(1125)年生〕。
正治元年12月13日(ユリウス暦:1200年1月1日)叙従三位。
同日准三宮。
建仁2年正月15日(ユリウス暦:1202年2月9日)院号。
建暦元年12月4日(ユリウス暦:1212年1月9日)為尼〔女院記作建保元(1213)年12月4日〕。真如観〔或如妙〕。
7月5日薨〔女院記正嘉元年7月5日(ユリウス暦:1257年8月15日)〕。
土御門天皇母。
藤原重子
修明門院。初名範子〔皇親系一作親子〕。改重子。二条君。
藤原範季
女。母従三位平教子。 法名法性覚〔女院小伝〕。
寿永元(1182)年生。
建永2年6月7日(ユリウス暦:1207年7月3日)院号
文永元年8月29日(ユリウス暦:1264年9月20日)崩〔女院小伝。尊卑分脈作23日〕
順徳天皇・雅成・尊快母。
少納言典侍
道守母。
西御方
坊門局。
坊門信清
女。頼仁・道助・礼子〔嘉陽門院〕母。
大宮局
藤原定能
女。尊円・行超母。
丹波局
兵衛督局。源信康女。肅子母。
尾張局
法眼顕清女。道覚母。
石
舞女。右衛門督。熈子母。
瀧
舞女。覚仁母。
姫法師
舞女。覚誉・道伊・道縁母。
在位
寿永2年8月20日(ユリウス暦:1183年9月8日)〜建久9年正月11日(ユリウス暦:1198年2月18日)
皇居
平安宮。
陵名
大原陵。
後鳥羽天皇系図
後鳥羽天皇
土御門天皇
順徳天皇
雅成親王
*1
澄覚法親王
(無品。母藤原親経女。天台座主。梶井。
建保6(1218)年生。
正応2年4月18日(ユリウス暦:1289年5月9日)薨。号菩提院)
承恵
(母藤原親経女修明門院中納言)
源雲
(或頼仁男。母舞女。権僧正。法印)
頼仁親王
*2
道乗
(上乗院。東寺一長者。建保3(1215)年生。
文永10年12月11日(ユリウス暦:1274年1月20日)入滅)
宝也上人
(為頼仁子)
道助法親王
(二品。俗名長仁。母坊門信清女西御方。仁和寺。号光台院・鳴瀧。
建久7年10月16日(ユリウス暦:1196年11月7日)生。
宝治3年正月16日(ユリウス暦:1249年3月1日)寂〔皇親系15日〕)
覚仁法親王
(母舞女瀧。園城寺長吏。円満院。三山検校。
建久9(1198)年生。文永3年4月19日(ユリウス暦:1266年5月25日)薨)
道覚法親王
(無品。俗名朝仁。牛車。天台座主。青蓮院。
号吉水宮。西山宮。母法眼顕清女尾張局。
元久元(1204)年生。
建長2年正月11日(ユリウス暦:1250年2月13日)薨〔天台座主記。諸門跡譜17日〕)
尊快法親王
(俗名寛成〔本朝皇胤紹運録・諸門跡譜〕。母修明門院。
天台座主。円融房〔天台座主記〕。梶井。二品〔系図纂要〕。
元久元年生〔天台座主記。※系図纂要作3月2日(ユリウス暦:1204年4月3日)〕。
承元2年8月2日(ユリウス暦:1208年9月13日)立親王〔系図纂要〕。
承久3年4月26日(ユリウス暦:1221年5月19日)天台座主〔天台座主記・系図纂要〕。
寛元4年4月2日(ユリウス暦:1246年4月19日)薨〔天台座主記・系図纂要・葉黄記〕)
尊円法親王
(無品〔本朝皇胤紹運録・諸門跡譜〕。母藤原定能女大宮局。
園城寺。聖護院。円忠僧正資〔本朝皇胤紹運録・諸門跡譜〕。配流備前国。
承元元(1207)年生〔系図纂要〕。
寛喜3年10月25日(ユリウス暦:1231年11月20日)薨〔本朝皇胤紹運録・
諸門跡譜・系図纂要〕。号保寿院宮〔系図纂要〕)
道守
(本名円快。母少納言典侍。仁和寺。号保寿院法印。号宮僧正〔仁和寺諸院家記〕)
覚誉
(母舞女姫法師〔諸門跡譜・系図纂要。※本朝皇胤紹運録作母舞女〕。
園城寺。大僧都。禅林院〔禅林寺〕)
道伊
(母同。園城寺)
道縁
(母同。仁和寺。一身阿闍梨)
行超
(母同尊円。延暦寺。権大僧都)
春華門院
(昇子内親王。一品。准三宮。母宜秋門院〔九条兼実女任子〕。
順徳院准母。入八条院。
建久6年8月13日(ユリウス暦:1195年9月18日)生
〔月日は系図纂要・皇親系による〕。
建久6年10月16日(ユリウス暦:1195年11月19日)為内親王〔女院小伝〕。
建久7年4月16日(ユリウス暦:1196年5月15日)准三宮〔女院小伝〕。
同年12月5日(ユリウス暦:1196年12月26日)入御八条院〔女院小伝〕。
承元2年8月8日(ユリウス暦:1208年9月19日)為皇后宮〔女院小伝〕。
承元3年4月25日(ユリウス暦:1209年5月30日)院号〔女院小伝〕。
建暦元年11月8日(ユリウス暦:1211年12月14日)薨)
嘉陽門院
(礼子内親王。母坊門信清女〔女院記作同女坊門局〕。
賀茂斎院。正治2(1200)年生〔女院小伝・女院記・系図纂要によるが、
本朝皇胤紹運録・女院小伝の没年齢73歳から計算すると建仁元(1201)年〕。
元久2年6月23日(ユリウス暦:1205年7月11日)為内親王〔女院小伝・女院記〕。
同日為賀茂斎院〔女院小伝・女院記〕。准三宮〔女院記・系図纂要〕。
建暦2年9月4日(ユリウス暦:1212年9月30日)退下依病〔女院小伝・女院記〕。
建保2年6月10日(ユリウス暦:1214年7月18日)院号〔本朝皇胤紹運録・女院小伝・
女院記・系図纂要・本朝女后名字抄〕。
承久2年5月22日(ユリウス暦:1220年6月24日)為尼〔女院小伝。
※女院記・系図纂要作21日〕。法名真如性〔女院小伝・系図纂要〕。
文永10年8月2日(ユリウス暦:1273年9月14日)薨
〔本朝皇胤紹運録・女院小伝・系図纂要〕。
号深草斎宮〔系図纂要〕)
肅子内親王
(斎宮。准后。号高辻斎宮。母少納言源信康女丹波局〔類聚大補任作兵衛局〕。
建久7(1196)年生〔類聚大補任〕。
正治元年12月28日(ユリウス暦:1200年1月16日)卜定〔類聚大補任。
※系図纂要作14日〕。承元4(1210)年11月下座〔類聚大補任〕)
皇女
(※系図纂要による。元久2年12月21日(ユリウス暦:1206年1月31日)著袴。
皇太后懐子養子)
熈子内親王
(斎宮。准三后。号深草斎宮。母舞女石、後右衛門督〔類聚大補任作母丹波局〕。
建保3年3月14日(ユリウス暦:1215年4月14日)卜定〔類聚大補任〕)
尊縁
(※系図纂要による。落胤土御門通親の子となるとある)
*1
雅成親王 藤原範季女重子〔修明門院〕。三品。号六条宮。但馬宮。正治2(1200)年生〔本朝皇胤紹運録の出家時の年齢から計算〕。建長7年2月10日(ユリウス暦:1255年3月19日)薨〔本朝皇胤紹運録建長2(1250)年薨〕。
*2
頼仁親王 無品。号冷泉宮又兒嶋宮。母坊門信清女西御方。
土御門天皇
[83]
順徳天皇[84]
順徳源氏系図
第85代
仲恭天皇
生没年
建保6年10月10日(ユリウス暦:1218年10月30日)〜天福2年5月20日(ユリウス暦:1234年6月18日)
異称
懐成。九条廃帝。
父
順徳天皇。
母
九条良経女立子(東一条院)。
配偶者
右京大夫局
法印性慶女。
在位
承久3年4月20日(ユリウス暦:1221年5月13日)〜承久3年7月9日(ユリウス暦:1221年7月29日)
皇居
平安宮。
陵名
九条陵。
仲恭天皇系図
仲恭天皇
和徳門院
(義子内親王。母法印性慶女。文暦元(1234)年生。
正嘉元年10月19日(ユリウス暦:1257年11月26日)為内親王。
弘長元年3月8日(ユリウス暦:1261年4月9日)准三宮。同日院号。
弘安10年12月10日(ユリウス暦:1288年1月14日)為尼。
法名真如覚。正応2年12月7日(ユリウス暦:1290年1月19日)薨)
※最終更新日 2015.10.12
第86代 後堀河天皇
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