名家  (清閑寺)

家系別分類表
清閑寺
【せいがんじ】
本姓:藤原氏。華族類別録第四十九類。 旧家 内々 一条家門流
藤原北家勧修寺流。権大納言吉田経長の三男資房を祖とする。一時、中絶するが、中御門資胤の子共房が清閑寺家を相続した。
広隆寺・智積院・高野山学侶等伝奏 〔雲上明覧大全文久元年版巻末によれば、この他に尾張津島社・ 妙顕寺・越中国泰寺・霊山正法寺・尾州国府宮神主社家・参州西尾城内御釼八幡宮並伊文全社・ 尾州中島郡中島宮伝奏〕
家紋 竹の丸。
家業  
江戸期石高 180石。
明治期爵位 伯爵。明治17(1884)年7月7日盛房伯爵授爵〔現代華族譜要〕
菩提所 光王院。
居所 中筋西側北角。

清閑寺家系図

資房までの系図は、甘露寺家系図を参照。
資房 ━ 資定 ━ 家房 ━ 家俊 ━ 幸房 ━ 家幸 ━ 共房 ┳ 共綱
  ┣ 共孝〔池尻
  ┣ 定矩〔梅小路
  ┣ 女子烏丸資慶室。光雄母)
  ┗ 女子富小路頼直室。永貞母)
┳ 熈房 ┳ 熈定 ┳ 治房 ┳ 秀定 ┳ 益房
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 定福(母家女房。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃ 勘解由次官従四位下梅小路共経朝臣嗣)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(※高千穂家譜による。
  ┃   ┃   ┃   ┃     高千穂妙有母。
  ┃   ┃   ┃   ┃     寛政3年6月27日(1791年7月27日)卒。
  ┃   ┃   ┃   ┃     号円照院性融智光)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 通敬(母同。本名熈孝。愛宕通貫嗣)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(※高千穂家譜による。英彦山神社孝有僧正室。
  ┃   ┃   ┃       号貞孝院澄心秋水。
  ┃   ┃   ┃       宝暦7年7月11日(1757年8月25日)卒)
  ┃   ┃   ┣ 女子(※系図纂要による。柳沢吉保養女。大久保忠英室)
  ┃   ┃   ┣ 女子(竹子。将軍徳川綱吉養女、後吉宗養女。島津継豊室。
  ┃   ┃   ┃   幕府祚胤伝によれば、安永元年12月5日(1772年12月28日)卒。
  ┃   ┃   ┃   葬于薩州鹿児島福昌寺。浄岸院信誉清仁祐光大禅定尼)
  ┃   ┃   ┣ 女子下冷泉宗家室。為栄母)
  ┃   ┃   ┗ 女子吉田兼章室。良延母)
  ┃   ┣ 尚房(本名熈輔。母高倉永敦女。万里小路淳房嗣)
  ┃   ┣ 女子勧修寺尹隆室)
  ┃   ┣ 女子(富小路貞維室)
  ┃   ┣ 女子(野宮定基室)
  ┃   ┃ 以下、家譜に无。系図纂要・柳営婦女伝系等による。
  ┃   ┣ 女子(※柳営婦女伝系による。柳沢吉保養女。大久保忠方室)
  ┃   ┣ 女子徳川綱吉側室。大典侍の局。北の丸の方。落飾号寿光院。
  ┃   ┃   幕府祚胤伝によれば、寛保元年10月10日(1741年11月17日)卒。
  ┃   ┃   葬于東叡山中大慈院。寿光院印月恵海大姉)
  ┃   ┣ 〔資長〕(系図纂要・柳営婦女伝系による。正三位。家領300石とあるので、
  ┃   ┃   東坊城資長のことか)
  ┃   ┣ 女子(※柳営婦女伝系による。当弁母)
  ┃   ┣ 金閣寺(禅〔系図纂要〕。鹿苑寺)
  ┃   ┗ 女子(※愛宕家譜・系図纂要・知譜拙記による。愛宕通貫母)
  ┣ 女子後西院帝局称東三条局)
  ┗ 天啓集伏(※万年山聯芳録による。瑞春院六世)
※島津継豊室は系図纂要・幕府祚胤伝等による。徳川幕府家譜によると、黒田継高の室となっているが、誤りか。
┳ 昶定 ┳ 和房(従五位下。母同共福。天明3(1783)年生。天明7年8月15日(1787年9月26日)卒)
  ┃   ┣ 高房(正五位下。母同共福。天明8(1788)年生。享和3年6月18日(1803年8月5日)卒)
  ┃   ┣ 共福 ┳ 寛房(従五位下。母野宮定業二女。文政元(1818)年生。
  ┃   ┃   ┃   文政5年2月9日(1822年3月31日)卒)
  ┃   ┃   ┣ 豊房 ┳ 盛房 ┳ 経房(母家女房。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
元治2年正月12日(1865年2月7日)生〔人事興信録初版〕。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
夫人壬生基修女修子〔現代華族譜要〕)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 静麿
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 修麿(明治元(1868)年11月生〔現代華族譜要〕。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
村上快誠養子。分家〔現代華族譜要〕。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
夫人赤阪多助長女ます)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(延。村田七郎養女。北島斉孝妻。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
文久3年3月3日(1863年4月20日)生
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
〔最新華族名鑑明治41年12月調〕)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(元。現代華族譜要作元子。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
明治2(1869)年12月生〔現代華族譜要〕。 
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
小手川信次夫人〔現代華族譜要〕)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 熈吉(※現代華族譜要による。改基房。
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
池尻子爵)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 雅子(※現代華族譜要による。明治9(1876)年
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
9月生。亀谷巖夫人)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 秀長(※現代華族譜要による。改国栄。
  ┃   ┃   ┃   ┃  
先代津守男爵)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 義麿(山城国百姓河村家養子)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 留麿(山城国百姓池西家養子)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(亀尾。浄喜寺慶応室)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 女子(政。平民倉内家養女)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 女子(賢。山城国百姓山下家養女)
  ┃   ┃   ┗ 女子大宮政季妻)
  ┃   ┣ 女子(兼子。冷泉為則妻)
  ┃   ┣ 女子(美代。堤維長妻)
  ┃   ┣ 女子池尻延房妻)
  ┃   ┗ 女子
  ┗ 定肖(母家女房。梅小路共之嗣)
■色の名前は公卿。
清閑寺 資房(本名雅房)
[ 嘉元2(1304)年 〜 康永3/興国5年11月4日(ユリウス暦:1344年12月9日) ]
吉田定房男(実者舎弟吉田経長男)。母冷泉経頼女。
嘉暦2年7月16日(ユリウス暦:1327年8月3日)任参議。
正三位・参議。
清閑寺 資定
[ ? 〜 貞治4/正平20年7月18日(ユリウス暦:1365年8月5日) ]
資房男。
貞治2/正平18年4月20日(ユリウス暦:1363年6月2日)任参議。
従三位・参議。
清閑寺 家房
[ 文和4/正平10(1355)年 〜 応永30年7月21日(ユリウス暦:1423年8月27日) ]
資定男。
明徳4(1393)年11月任参議。
正二位・権中納言。
清閑寺 家俊
[ 永和4/天授4(1378)年 〜 永享5(1433)年 ]
家房男。
応永21年3月16日(ユリウス暦:1414年4月6日)任参議。
永享4(1432)年以降、不見。
正二位・権大納言。
清閑寺 幸房
[ 応永24(1417)年 〜 寛正2年6月6日(ユリウス暦:1461年7月13日) ]
家俊男。
宝徳元(1449)年10月任参議。
従二位・権中納言。
清閑寺 共房
[ 天正17年5月27日(1589年7月9日) 〜 寛文元年7月28日(1661年8月22日) ]
右大弁正四位上家幸朝臣男(実中御門資胤男)。母家女房。
法名清徳院〔系図纂要作清徳院心月常照〕
慶長19年正月11日(1614年2月19日)任参議。
従一位・内大臣。
※中絶していた清閑寺家を相続。
清閑寺 共綱
[ 慶長17年10月21日(1612年11月13日) 〜 延宝3年8月26日(1675年10月15日) ]
共房男。母摂津国平野光源寺智祐女〔家譜・系図纂要〕
覚寿院観空常意〔系図纂要〕
寛永16年9月15日(1639年10月11日)任参議。
従一位・権大納言。
公卿補任尻付
慶長18年7月21日(1613年9月5日)叙位。
元和2年12月17日(1617年1月24日)元服昇殿。左衛門権佐。
元和3年正月5日(1617年2月10日)従五位上。
元和6年正月5日(1620年2月8日)正五位下。
寛永元年11月28日(1625年1月7日)中宮権大進(佐如元)。
寛永4年7月27日(1627年9月6日)蔵人。
同年9月7日左少弁(権大進如元)。
同年11月17日正五位上。
寛永6年11月6日(1629年12月20日)右中弁。
同月9日去権大進。
寛永8年12月18日(1632年2月8日)左中弁。
寛永9年5月2日(1632年6月19日)従四位下。同日蔵人頭。
同年9月8日従四位上。
同年12月11日正四位下(年中三カ度)。
寛永10年正月6日(1633年2月14日)正四位上。
寛永12年正月11日(1635年2月28日)右大弁。
寛永14年12月20日(1638年2月3日)左大弁。
清閑寺 熈房(本名保房)
[ 寛永10年3月29日(1633年5月7日) 〜 貞享3年10月10日(1686年11月25日) ]
共綱男。母中院通村女。
真空院円明常念〔系図纂要〕。一字名・賢 〔類聚名伝抄〕
承応4年正月11日(1655年2月17日)任参議。
従一位・権大納言。
清閑寺 熈定
[ 寛文2年7月13日(1662年8月26日) 〜 宝永4年正月10日(1707年2月12日) ]
熈房男。母高倉永敦女。
信解院正厳常因〔系図纂要〕
貞享元年11月1日(1684年12月7日)任参議。
従二位・権大納言。
清閑寺 治房
[ 元禄3年8月4日(1690年9月6日) 〜 享保18年9月29日(1733年11月5日) ]
熈定男。母家女房〔家譜・系図纂要〕
奈園院真如常光〔系図纂要〕
享保2年2月25日(1717年4月6日)任参議。
従二位・権大納言。
清閑寺 秀定
[ 宝永6年6月7日(1709年7月13日) 〜 宝暦9年10月23日(1759年12月12日) ]
治房男。母中院通躬女。
恵観院信応常安〔系図纂要〕
享保20年11月12日(1735年12月25日)任参議。
正二位・権大納言
公卿補任尻付
宝永6年6月7日(1709年7月13日)誕生。
正徳元年12月23日(1712年1月30日)叙爵。
享保元年12月27日(1717年2月8日)元服昇殿右衛門権佐従五位上。
享保5年12月28日(1721年1月25日)正五位下。
享保9年閏4月21日(1724年6月12日)右少弁(権佐如旧)。
享保10年11月26日(1725年12月30日)蔵人。
同月28日禁色。
享保11年7月24日(1726年8月21日)正五位上。
享保13年2月23日(1728年4月2日)辞右衛門権佐。
享保15年9月18日(1730年10月29日)右中弁。
享保17年4月25日(1732年5月19日)左中弁。
享保18年9月29日(1733年11月5日)喪父。
同11月30日除服出仕復任。
享保19年正月24日(1734年2月27日)従四位下蔵人頭。
同5月24日従四位上。
同12月2日右大弁。
同12月24日正四位下。
享保20年2月12日(1735年3月6日)正四位上。
同3月21日新帝蔵人頭。
清閑寺 益房
[ 元文元年9月27日(1736年10月31日) 〜 享和3年7月15日(1803年8月31日) ]
秀定男。母興正寺大僧正常勤女。
深如海院〔系図纂要〕
宝暦6年5月10日(1756年6月7日)任参議。
従一位・権大納言。
清閑寺 昶定
[ 宝暦12年後4月25日(1762年6月17日) 〜 文化14年11月28日(1818年1月4日) ]
益房男。母吉田良延女。
清浄観院〔系図纂要〕
寛政4年10月27日(1792年12月10日)任参議。
従一位・権大納言。
清閑寺 共福
[ 寛政5年11月22日(1793年12月24日) 〜 天保10年11月3日(1839年12月8日) ]
昶定男。母英彦山座主僧正高千穂孝助女。
天保4年7月9日(1833年8月23日)任参議。
正三位・参議。
清閑寺 豊房
[ 文政5年9月20日(1822年11月3日) 〜 明治5年3月24日(1872年5月1日) ]
共福男。母野宮定業二女。
慶応3年9月27日(1867年10月24日)任参議。
明治元年時、従三位・権中納言。
公卿補任尻付
文政6年12月19日(1824年1月19日)叙爵。
天保2年12月8日(1832年1月10日)元服聴昇殿。
同日叙従五位上。同日拝賀。
天保5年11月27日(1834年12月27日)叙正五位下。
天保10年11月3日(1839年12月8日)喪父。
同年12月23日除服出仕。
嘉永元年10月25日(1848年11月20日)任補民部大輔蔵人(推任補。依大嘗会御用中)。
同月28日聴禁色。同日拝賀従事。
同年12月14日辞蔵人。
嘉永2年7月5日(1849年8月22日)任侍従。
同年8月29日拝賀。
嘉永3年5月13日(1850年6月22日)服解(母)。
同年7月5日除服出仕復任。
嘉永5年10月9日(1852年11月20日)任右弁。
同月23日拝賀従事。
嘉永6年5月27日(1853年7月3日)還補蔵人。
同年6月2日拝賀従事。
同月12日宿侍始。
同年8月21日叙正五位上。
安政2年8月25日(1855年10月5日)為氏院別当。
安政3年8月8日(1856年9月6日)去氏院別当(依関白改易也)。
安政4年5月15日(1857年6月6日)転左少弁(小除目)。
同日兼左衛門権佐。同日蒙使宣旨。同日拝賀。
同月17日出仕始。
同年10月19日転権右中弁(権左使等如元)。
同月24日拝賀従事。
安政5年10月7日(1858年11月12日)為御祈奉行。
安政6年9月20日(1859年10月15日)為神宮弁。
同日免御祈奉行。同年10月22日免神宮弁。同日為御祈奉行。
同年12月1日為氏院別当。
万延元年7月23日(1860年9月8日)為神宮弁賀茂下上社奉行(昨日分)。
同年8月2日免御祈奉行。同月29日為御祈奉行。同日免神宮弁。
同年10月9日辞御祈奉行賀茂下上社奉行氏院別当。
万延2年正月23日(1861年3月4日)転右中弁(権左使等如元)。
文久元年10月14日(1861年11月16日)為神宮弁。賀茂下上社奉行等。
同年11月23日補叙蔵人頭従四位下。同月25日拝賀従事。
同年12月5日叙従四位上。同月9日宿侍始。
同月19日叙正四位下。
文久2年正月23日(1862年2月21日)叙正四位上。
同年5月3日止神宮弁賀茂下上社奉行等。
同年7月16日為神宮弁。
同年閏8月1日辞神宮弁。
文久3年5月29日(1863年7月14日)転左中弁。
同月30日為造興福寺長官。
同年8月22日為氏院別当。
同月23日為神宮弁。同日為賀茂下上社奉行(昨日分)。
同年9月1日免為賀茂下上社奉行。
元治2年正月30日(1865年2月25日)辞神宮弁。
同年閏5月15日転右大弁(長官如元)。
同月21日拝賀従事。
同年6月11日為賀茂下上社奉行(昨日分)。
同年10月26日辞賀茂下上社奉行。
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※最終更新日 2017.09.21


勧修寺家
13家
清閑寺、

日野家

桓武平氏
3家

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    東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
    公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
    尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館
    新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
    公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
    系図纂要(名著出版)
    を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。 知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
  • 菩提寺・居所に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕
    公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
    を基本としました。 家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
    実地調査はおこなっておりません。
  • 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。
  • 家紋に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
    日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
  • 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、
    その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。
    ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。 ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。
    和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。
    西暦への変換に関しては、和暦の各月の大小の値を 「日本暦日原典」内田正男/著に従って、算出したものです。
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