名家(めいか)〔穂波〕 家系別分類表

穂波

【ほなみ】

本姓:藤原氏。華族類別録第四十九類。

新家 外様 九条家門流
藤原北家勧修寺流。勧修寺経広の次男経尚を祖とする。経尚は初め海住山姓を名のっていたが、寛文5年頃、穂波に改姓した。
家紋 竹に雀。
家業  
江戸期石高 御蔵米30石。明治2(1869)年6月、穂波経度が永世禄百石を賜る (戦功鳥羽伏見及奥羽役賞典表)
明治期爵位 子爵。明治17(1884)年7月8日穂波経藤が子爵を授爵〔現代華族譜要〕
〔明治38(1905)年6月爵位返上(現代華族譜要)〕
菩提所 立本寺享保院〔華族名鑑明治22年版此に同じ〕
居所 蛤御門之外。

穂波家系図

経尚までの系図は、勧修寺家系図を参照。
経尚 ━ 晴宣 ┳ 経古(母正親町三条公統養女〔実吉田兼敬女〕。
  ┃   享保18年12月2日(1734年1月6日)生。
  ┃   元文4年12月28日(1740年1月26日)叙従五位下。
  ┃   元文6年正月7日(1741年2月22日)卒
  ┃   〔系図纂要8日〕)
  ┗ 尚明
尚孝 (母家女房。
    宝暦7年6月25日(1757年8月9日)誕生。
    安永3年正月8日(1774年2月18日)
    叙正五位下。
    安永5年12月19日(1777年1月28日)
    任中務権大輔。
    安永6年5月25日(1777年6月30日)卒
    〔系図纂要26日〕。
    一如院〔系図纂要〕)
経条 ┳ 経誠(母家女房。寛政10年10月1日(1798年11月8日)生
  ┃   〔系図纂要寛政9年11月1日(1797年12月18日)〕。
  ┃   享和4年正月11日(1804年2月21日)叙従五位下。
  ┃   文化7年5月2日(1810年6月3日)返上位記)
  ┣ 経訓(母家女房。享和2年6月20日(1802年7月19日)生。
  ┃   文化11年4月28日(1814年6月16日)叙従五位下。
  ┃   文化13年2月17日(1816年3月15日)任右京大夫
  ┃   文化15年正月22日(1818年2月26日)叙従五位上。
  ┃   文政3年正月29日(1820年3月13日)卒。
  ┃   普明院法雨日観〔系図纂要〕)
  ┣ 経武(母家女房。文化9年3月28日(1812年5月9日)生。
  ┃   文政6年8月28日(1823年10月2日)叙従五位下。
  ┃   文政6年10月16日(1823年11月18日)卒〔家譜〕。
  ┃   ※系図纂要によれば、天保6(1835)年
  ┃   7月10日返上位記)
  ┗ 経治 (母家女房。※或実勧修寺経則男。
  文政7年7月13日(1824年8月7日)誕生。
  天保9年2月3日(1838年2月26日)叙従五位下。
  同年12月5日元服聴昇殿、任左京権大夫。
  天保11年3月14日(1840年4月16日)兼春宮少進。
  天保13年3月10日(1842年4月20日)卒
  〔系図纂要作天保12(1841)年同月日〕。
  雲昇院容顔日秀〔系図纂要〕)
経度 ┳ 愛子
  ┣ 経藤 (母今城定章女。
  ┃   文久元年4月29日
  ┃   (1861年6月7日)生。
  ┃   慶応元年12月23日
  ┃   (1866年2月8日)叙爵。
  ┃   華族名鑑・華族鑑によると、
  ┃   夫人菊枝〔華族家系大成作
  ┃   藤本同顕長女〕
  ┃   慶応3年正月27日
  ┃   (1867年3月3日)生。)
  ┣ 糸子
  ┣ 義子(伊東富住妻)
  ┣ 景延(河田景与養子)
  ┗ 亀三郎
■色の名前は公卿。

公卿補任に記載されている公卿

穂波 経尚
[ 正保3年8月14日(1646年9月23日) 〜 宝永3年6月12日(1706年7月21日) ]
勧修寺経広次男。母徳永昌純女〔家譜作勧修寺経敬女〕。初号・海住山。
妙行院冷山日寿〔系図纂要〕
天和2年正月5日(1682年2月12日)叙従三位。
従二位・権中納言。
穂波 晴宣
[ 元禄10年7月12日(1697年8月28日) 〜 明和5年正月12日(1768年2月29日) ]
経尚男(実勧修寺尹隆次男)。母家女房(実母清閑寺熈房女)。
春光院〔系図纂要〕
享保11年正月9日(1726年2月10日)叙従三位。
正三位・非参議。
公卿補任尻付
元禄10年7月12日(1697年8月28日)誕生。
元禄15年12月23日(1703年2月8日)叙爵。
宝永2年11月18日(1706年1月2日)元服昇殿勘解由次官。
宝永3年6月6日(1706年7月15日)従五位上(去正五分)。
同12日喪養父。
同8月13日除服出仕復任。
宝永7年閏8月9日(1710年10月1日)正五位下(去二廿八分)。
正徳4年5月12日(1714年6月23日)従四位下(去正五分)。
享保3年6月4日(1718年7月1日)従四位上(去正五分)。
享保7年正月18日(1722年3月5日)正四位下(去六分)。
穂波 尚明(本名実盈)
[ 享保14年6月20日(1729年7月15日) 〜 安永5年4月20日(1776年6月6日) ]
晴宣男(実橋本実松男)。実母七条隆豊女。
究竟院〔系図纂要〕
宝暦13年12月19日(1764年1月21日)叙従三位。
正三位・非参議。
穂波 経条
[ 安永3年6月5日(1774年7月13日) 〜 天保7年12月18日(1837年1月24日) ]
中務権大輔尚孝男。母家女房。
清廉院鷲山日照〔系図纂要〕
文化3年正月18日(1806年3月7日)叙従三位。
従二位・参議。
穂波 経度
[ 天保8年11月12日(1837年12月9日) 〜 大正4(1915)年10月 ]
左京大夫経治男。母家女房。夫人幸子〔華族名鑑・華族鑑。華族家系大成によれば、今城定章四女〕
慶応2年正月4日(1866年2月18日)叙従三位。
明治元年12月19日(1869年1月31日)任民部卿。
明治元年時、従三位・非参議・民部卿(32才)。
公卿補任尻付
弘化2年正月5日(1845年2月11日)叙従五位下(9歳)。
嘉永3年12月17日(1851年1月18日)元服聴昇殿(14歳)。
同日任叙伊勢権介従五位上。
嘉永4年正月18日(1851年2月18日)任左京大夫。
嘉永6年5月8日(1853年6月14日)叙正五位下(17歳)。
安政3年2月5日(1856年3月11日)叙従四位下(20歳)。
安政6年10月21日(1859年11月15日)叙従四位上(23歳)。
文久2年12月24日(1863年2月12日)叙正四位下(26歳)。
※系図纂要によれば、実は勧修寺顕彰二男。
※華族名鑑・華族鑑によれば、生月日は10月12日。
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