藤原北家閑院流徳大寺庶流
徳大寺実能の孫実家(川原流)の孫実光を祖とする。
徳大寺庶流近衛家系図
実光
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公敦
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実香
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公量
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実博
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実村
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実胤
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実正
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公音
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光憲
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公名
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女子
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公賢
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公緒
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久家(或冬家)
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公晴
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女子
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徳大寺庶流近衛家公卿一覧
藤原 実光[ 建仁2(1202)年 〜 宝治元年9月12日(ユリウス暦:1247年10月12日) ]
公国三男。母大江広元女。
延応元年10月28日(ユリウス暦:1239年11月25日)任参議。 宝治元(1247)年3月出家。 従三位・参議。
公卿補任尻付
建保5年正月6日(ユリウス暦:1217年2月13日/グレゴリオ暦:1217年2月20日月曜日)叙爵。
建保6年12月9日(ユリウス暦:1218年12月28日/グレゴリオ暦:1219年1月4日金曜日)侍従。
承久3年10月2日(ユリウス暦:1221年10月18日/グレゴリオ暦:1221年10月25日月曜日)左少将。
承久4年正月20日(ユリウス暦:1222年3月4日/グレゴリオ暦:1222年3月11日金曜日)叙従五位上。
元仁元[貞応3]年正月5日(ユリウス暦:1224年1月26日/グレゴリオ暦:1224年2月2日金曜日)叙正五位下(府労)。
嘉禄3年正月5日(ユリウス暦:1227年1月23日/グレゴリオ暦:1227年1月30日土曜日)叙従四位下。同26日還任左少将。
寛喜2年10月25日(ユリウス暦:1230年12月1日/グレゴリオ暦:1230年12月8日日曜日)尾張守。
寛喜3年正月7日(ユリウス暦:1231年2月10日/グレゴリオ暦:1231年2月17日月曜日)叙従四位上。
貞永元年12月15日(ユリウス暦:1233年1月26日/グレゴリオ暦:1233年2月2日水曜日)右中将。
文暦2年正月23日(ユリウス暦:1235年2月12日/グレゴリオ暦:1235年2月19日月曜日)叙正四位下(臨時)。
暦仁2年正月24日(ユリウス暦:1239年3月1日/グレゴリオ暦:1239年3月8日火曜日)蔵人頭。
※生年は、最終年条の46歳から逆算。初見時から前年までの年齢から計算すると、元久元(1204)年生。
系図纂要は、没年齢44歳。
藤原 公敦(本名公材)[ 嘉禎元(1235)年 〜 弘安10年12月6日(ユリウス暦:1288年1月10日) ]
実光男。
弘安8年3月6日(ユリウス暦:1285年4月12日)任参議。 正三位・参議。
公卿補任尻付
寛元4年正月5日(ユリウス暦:1246年1月23日/グレゴリオ暦:1246年1月30日火曜日)叙爵(于時公材)。
宝治3年正月24日(ユリウス暦:1249年3月9日/グレゴリオ暦:1249年3月16日火曜日)侍従(于時公敦)。
建長5年正月13日(ユリウス暦:1253年2月12日/グレゴリオ暦:1253年2月19日水曜日)右少将。
建長6年正月5日(ユリウス暦:1254年1月25日/グレゴリオ暦:1254年2月1日日曜日)叙従五位上(府労)。同十三因幡介。
康元2年正月6日(ユリウス暦:1257年1月22日/グレゴリオ暦:1257年1月29日月曜日)叙正五位下。
正嘉3年正月6日(ユリウス暦:1259年1月30日/グレゴリオ暦:1259年2月6日木曜日)叙従四位下(府労)。
文応元年5月26日(ユリウス暦:1260年7月6日/グレゴリオ暦:1260年7月13日火曜日)左少将。同9月8日転中将。
弘長元年11月4日(ユリウス暦:1261年11月27日/グレゴリオ暦:1261年12月4日日曜日)叙従四位上。
文永5年11月9日(ユリウス暦:1268年12月14日/グレゴリオ暦:1268年12月21日金曜日)叙正四位下。
弘安7年2月13日(ユリウス暦:1284年3月1日/グレゴリオ暦:1284年3月8日水曜日)補蔵人頭。
※系図纂要は、没月日11月6日。
近衛 実香(本名実邦・実員)[ 弘長元(1261)年 〜 正中2年4月19日(ユリウス暦:1325年5月31日) ]
藤原公敦男。
正安3年4月5日(ユリウス暦:1301年5月13日)任参議。 正二位・権中納言。
公卿補任尻付
文永7年4月30日(ユリウス暦:1270年5月21日/グレゴリオ暦:1270年5月28日水曜日)叙爵(東二条院令爵宣下。于時実邦)。
建治元年10月8日(ユリウス暦:1275年10月28日/グレゴリオ暦:1275年11月4日月曜日)任侍従(于時実員)。
弘安2年12月12日(ユリウス暦:1280年1月15日/グレゴリオ暦:1280年1月22日月曜日)叙従五位上。
弘安5年4月8日(ユリウス暦:1282年5月16日/グレゴリオ暦:1282年5月23日土曜日)叙正五位下。
弘安7年正月6日(ユリウス暦:1284年1月25日/グレゴリオ暦:1284年2月1日火曜日)叙従四位下。
弘安7年8月8日(ユリウス暦:1284年9月18日/グレゴリオ暦:1284年9月25日月曜日)任右近少将。
弘安8年11月3日(ユリウス暦:1285年11月30日/グレゴリオ暦:1285年12月7日金曜日)叙従四位上。
弘安10年6月22日(ユリウス暦:1287年8月2日/グレゴリオ暦:1287年8月9日土曜日)転左近中将(于時実香)。
弘安10年12月6日(ユリウス暦:1288年1月10日/グレゴリオ暦:1288年1月17日土曜日)遭父喪。
弘安11年2月10日(ユリウス暦:1288年3月13日/グレゴリオ暦:1288年3月20日土曜日)復任。
正応2年7月16日(ユリウス暦:1289年8月3日/グレゴリオ暦:1289年8月10日水曜日)叙正四位下。
正安2年12月22日(ユリウス暦:1301年2月1日/グレゴリオ暦:1301年2月9日水曜日)補蔵人頭。
近衛 公量[ ? 〜 康安元/正平16(1361)年 ]
実香男。
延慶3年3月9日(ユリウス暦:1310年4月9日)任参議。 従二位・参議。
公卿補任尻付
正応3年9月21日(ユリウス暦:1290年10月25日/グレゴリオ暦:1290年11月1日水曜日)叙従五位下。
永仁2年3月27日(ユリウス暦:1294年4月24日/グレゴリオ暦:1294年5月1日土曜日)叙従五位上。
永仁5年6月14日(ユリウス暦:1297年7月4日/グレゴリオ暦:1297年7月11日木曜日)叙正五位下(賜去正月29日位記)。
永仁7年2月22日(ユリウス暦:1299年3月25日/グレゴリオ暦:1299年4月1日水曜日)叙従四位下(賜去年正月5日位記)。
2月29日侍従。
正安3年11月4日(ユリウス暦:1301年12月4日/グレゴリオ暦:1301年12月12日月曜日)兼備中介。新嘗会国司。
同18日(ユリウス暦:1301年12月18日/グレゴリオ暦:1301年12月26日月曜日)叙従四位上(国司賞)。
嘉元元年12月24日(ユリウス暦:1304年1月31日/グレゴリオ暦:1304年2月8日金曜日)右少将。
嘉元2年5月5日(ユリウス暦:1304年6月8日/グレゴリオ暦:1304年6月16日月曜日)叙正四位下。
嘉元4年2月5日(ユリウス暦:1306年3月20日/グレゴリオ暦:1306年3月28日日曜日)転中将。
徳治2年正月29日(ユリウス暦:1307年3月4日/グレゴリオ暦:1307年3月12日土曜日)筑前介。
延慶2年6月12日(ユリウス暦:1309年7月19日/グレゴリオ暦:1309年7月27日土曜日)補蔵人頭。
※系図纂要によれば、
貞和4/正平3年4月20日(ユリウス暦:1348年5月18日)出家。貞和4/正平3年5月12日(ユリウス暦:1348年6月9日)没(60歳、逆算すると、正応2(1289)年生)。
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