公卿類別譜
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(だいじんけ)
正親町三条
・
三条西
・
中院
正親町三条
【おおぎまちさんじょう】
本姓:藤原氏。華族類別録第五十三類。
旧家
内々
近衛家門流
藤原北家公季(閑院)流。三条庶流。左大臣三条実房の三男公氏を祖とし、 三条公雅(公氏から9代目)の子実雅が、家名とする。明治時代に嵯峨に改姓
〔家譜によると、明治3年12月23日(1871年2月12日)改号〕
。
庶流の堂上家は、三条西家・武者小路家・押小路家・高松家・花園家。
堂上家以外の庶流では、戸田家
〔信濃松本藩・美濃野村藩・下野足利藩・下野宇都宮藩・美濃大垣藩・下野高徳藩〕
などがある。 また、続群書類従所収浅井系図・寛政重修諸家譜・系図纂要では、 戦国大名の浅井氏も権大納言公綱の裔としている
〔※柳営婦女伝系は物部姓で敏達天皇の裔?となっている〕
。
家紋
連翹襷。
家業
有職故実。
江戸期石高
200石。明治2年9月26日(1869年10月30日)、実愛が永世禄千石を賜る
(復古功臣賞典表)
。
明治期爵位
伯爵
〔公勝=明治17(1884)年7月7日授爵〕
。侯爵
〔公勝=明治21(1888)年1月17日陞爵〕
。
菩提所
松林院。
居所
椹木町寺町西入。
正親町三条家略系図
実行
〔三条祖〕
公教
実綱
公行
実国
〔滋野井祖〕⇒〔滋野井・八条・阿野〕
実房
公房
〔嫡流〕
公宣
公氏
⇒
⇒
実蔭
公貫
実躬
公秀
⇒
公躬
実仲
公明
実治
公種
実任
公綱
⇒
実継
公豊
実豊
公雅
実雅
公綱
公治
実望
公兄
実福
⇒
公時
〔
三条西
祖⇒武者小路・押小路・高松〕
実教〔
花園
〕
実音
公敦
公頼
正親町三条家本家系図
公氏
実蔭
公貫
⇒
公行
(侍従)
公蔭
(侍従)
公種
*1
実任
公綱
公世
(正四位下。右中将。為祖父卿子)
季任
季種
公遍
(※仁和寺諸院家記による。
真乗院。権僧正)
実連
(侍従)
教誉
(園城寺。少僧都)
実位
(仁和寺。法印権大僧都。石山座主)
叡澄
(或叡空、永空。二尊院正覚上人。
徳治2年6月17日(ユリウス暦:1307年7月17日)入滅)
*1
公種 母少将時通朝臣女。
⇒
実仲
公明
女子
(三条実継室。公豊母)
季氏
実治
公為
*1
実博
*2
公久
*3
実文
(系図纂要作実久。
遁世。妙心院雲峰寂然)
興雅
(興福寺。法印。権僧正。
安祥寺)
女子
(三条西公時母)
実躬
公秀
⇒
公躬
女子
(
光明天皇
後宮。本朝皇胤紹運録による)
公勝
(勧修寺。権僧正。宝幢院)
女子
女子
(
正親町実明
室。宣光門院等母)
女子
女子
(正親町実明室)
実暁
(※鶴岡八幡宮寺供僧次第による。
実円坊〔改法円坊、改金勝院〕。
大納言法印。文永7(1270)年生。
元応2年2月3日(ユリウス暦:1320年3月13日)入滅)
*1
公為 又公仲、又公澄。右中将。慈心院楽峯常空。
*2
実博 法心院無想乗静。
*3
公久 左中将。蓮心院実空阿遊。
⇒
実数
(左中将)
実継
⇒
実音
公敦
公頼
女子
(秀子。陽禄門院。
光厳院
後宮。
崇光天皇
・
後光厳天皇
母。
応長元(1311)年生〔女院小伝〕。
建武3/延元元年11月25日
(ユリウス暦:1336年12月28日)為典侍〔女院小伝〕。
建武4/延元2年3月29日
(ユリウス暦:1337年4月30日)叙従三位〔女院小伝〕。
文和元/正平7年10月29日
(ユリウス暦:1352年12月6日)准三宮〔女院小伝〕。
同日院号〔尊卑分脈。※本朝女后名字抄27日〕。
同年11月12日出家〔女院小伝〕。
同28日薨〔女院小伝・女院記〕)
女子
(
四辻季顕
母)
融観
(椎野)
了空
(報恩院)
⇒
公豊
実豊
公雅
⇒
女子
公保
(
三条西実清
嗣。
*公卿補任による)
寛勝
(宝憧院〔家譜〕。或報恩院)
女子
女子
女子
公時
〔
三条西
〕
公海
(勧修寺。報恩院)
道秀
(仁和寺。慈尊院。
号内大臣法印〔仁和寺諸院家記〕)
明円
(延暦寺。毘沙門堂)
両継
(系図纂要作西継。延暦寺。日厳院)
智光
(宝幢院)
英球
(首座)
然観
(椎野)
⇒
実雅
公綱
重政
〔⇒
浅井
〕
女子
(伊勢守平貞陸妻。
*尊卑分脈による)
公治
⇒
女子
(或養女。三条公敦母)
実済
(延暦寺。僧正〔家譜作権僧正〕。横川長吏。号上乗院)
女子
(尹子。号瑞春院。
源[足利]義教
室)
女子
(源義教妾)
女子
⇒
実興
実光〔
戸田
〕
実望
正観
(椎野。観智弟子)
公兄
⇒
女子
(
西園寺実宣
室。公朝母。但離別云々)
季国
(
滋野井教国
嗣。*公卿補任・諸家知譜拙記)
尊実
(延暦寺。権僧正。上乗院)
観智
(椎野)
女子
(
鷹司兼輔
室。忠冬母。従二位)
⇒
実兄
(侍従従五位下。早世)
実福
公仲
⇒
実教〔
花園
〕
※花園家譜によると、公兄孫とある。
女子
(
三条西実枝
室。公国母)
松陰居士
隆憲
(
四条隆昌
猶子。櫛笥家祖)
隆致
(隆憲嗣)
女子
(小字万。候武家。母同)
女子
(候関白秀次公。母同)
⇒
貞秀
*1
貞長
※1
〔中川、後改
堤
〕
時長
(
甘露寺豊長
嗣)
嗣長
(甘露寺時長嗣)
実有
公高
実昭
⇒
公家
(悲田院僧。号松院)
実昭
(本名季成。号押小路。公高嗣)
女子
(日野弘資室)
女子
(浅野内匠頭長綱室)
豊長
(甘露寺経遠朝臣嗣)
男子
(※系図纂要による)
男子
(※系図纂要による)
女子
(
三条公広
室。実秀母)
*1
貞秀 ※系図纂要による。中川。
※1 系図纂要による。諸家知譜拙記によれば、嗣長男。
⇒
男子
(※家譜による)
公廉
実久
公統
⇒
公統
(実久嗣。※系図纂要作実昭男)
輝季
(
河鰭実詮
朝臣嗣)
実久
(公廉嗣)
⇒
実彦
(実滋野井公澄男。母甘露寺方長女〔知譜拙記〕。
⇒
右中将。正四位下。
元禄16年10月30日(1703年12月8日)生
〔日は家譜による。系図纂要作20日〕。
享保10年8月28日(1725年10月4日)卒。
真岳院)
女子
(※穂波家譜による。実吉田兼敬女。
穂波晴宣
室)
⇒
公積
実同
公則
実義
⇒
女子
(富子。
柳原隆光
妻)
女子
(綱子〔明治天皇御降誕と大阪〕、
中山忠頼
室。忠能母)
女子
(
柳原隆光
母)
実章
(
花園公純
朝臣嗣)
女子
(周子。新清和門院女房)
⇒
女子
公厚
(文政3年正月2日(1820年2月15日)誕生。
従五位下。
文政5年正月12日(1822年2月3日)没)
実愛
女子
(母今城定章長女登茂)
女子
(母今城定章長女登茂)
女子
(眉延子〔華族名鑑〕。
母今城定章長女登茂。
下冷泉為柔室。
嘉永元年6月8日(1848年7月8日)生
〔華族名鑑〕)
女子
(母今城定章長女登茂)
公平
(嘉永3年8月4日(1850年9月9日)誕生。
母今城定章長女登茂。侍従。従四位下。
安政7年正月11日(1860年2月2日)没)
女子
(保子。母今城定章長女登茂。
毛利敬親養女。毛利元敏妻。
嘉永5年5月8日(1852年6月25日)生
〔華族鑑〕)
女子
(母今城定章長女登茂)
女子
(母今城定章長女登茂。
※現代華族譜要によれば、
7女は餘年子。
野宮定穀
妻。
安政4年12月20日(1858年2月3日)生〔
20日は華族鑑による〕。
大正5(1916)年11月卒)
女子
(母家女房)
公勝
(文久2年6月9日(1862年7月5日)生〔家譜〕。
母
今城定章
女〔家譜〕。
元治元年12月4日(1865年1月1日)
叙従五位下〔家譜〕。
慶応元年5月2日(1865年5月26日)
叙従五位上〔家譜〕。
慶応2年正月15日(1866年3月1日)
任侍従〔家譜〕。
同年8月10日叙正五位下〔家譜〕。
夫人
中山忠光
女仲子〔華族名鑑〕)
女子
(母家女房)
男子
(母家女房)
女子
(千香。実石崎宇三郎長女。永山盛雄夫人。
*華族家系大成による)
■色
の名前は公卿。
正親町三条家公卿一覧
※新訂増補国史大系 公卿補任(吉川弘文館)の校訂では、公頼までの家名を三条と記載しているので、以下、改めずに、そのまま掲載する。
三条 公氏
(正親町三条)
[ 寿永元(1182)年 ? 嘉禎3年9月15日(ユリウス暦:1237年10月5日) ]
実房三男、母藤原経宗女。号・三条、嵯峨、西郊。
建暦元年10月2日(ユリウス暦:1211年11月8日)任参議。右中将如元。
正二位・権大納言。
正親町三条の祖。
公卿補任尻付
建久2年正月5日(ユリウス暦:1191年1月31日)叙位(女御琮子当年)。
建久3年10月26日(ユリウス暦:1192年12月2日)左兵衛佐。
建久6年正月6日(ユリウス暦:1195年2月17日)従五位上(労)。
正治元[建久10]年正月5日(ユリウス暦:1199年2月1日)正五位下(労)。
正治2年正月22日(ユリウス暦:1200年2月8日)右少将。
建仁元[正治3]年正月29日(ユリウス暦:1201年3月5日)周防権介。
12月22日従四位下(少将如元)。
建仁3年正月5日(ユリウス暦:1203年2月18日)従四位上(臨時)。
10月3日転中将。
元久元年11月1日(ユリウス暦:1204年11月23日)正四位下。
元久2年正月29日(ユリウス暦:1205年2月19日)播磨権介。
承元3年正月13日(ユリウス暦:1209年2月18日)越前権介。
承元4年12月17日(ユリウス暦:1211年1月3日)蔵人頭。
三条 実蔭
(元実茂)
(正親町三条)
[ 正治元(1199)年 ? 仁治2年5月5日(ユリウス暦:1241年6月15日) ]
公氏一男。母藤原泰通女。
暦仁2年正月24日(ユリウス暦:1239年3月1日)任参議。
従三位・参議。
三条 公貫
(正親町三条)
[ 暦仁元(1238)年 ? 正和4年2月29日(ユリウス暦:1315年4月3日) ]
実蔭男。母法印道寛女(家譜によれば、法印道宣女)。山階実雄猶子。法名・空円。
建治元年10月8日(ユリウス暦:1275年10月28日)任参議。
嘉元元年9月15日(ユリウス暦:1303年10月26日)出家。
正二位・権大納言。
※生年は、家譜による。
三条 実躬
(正親町三条)
[ 文永元(1264)年 ? ? ]
公貫三男。母藤原為経女。法名・実円。
永仁6年6月23日(ユリウス暦:1298年8月1日)任参議。
文保元年2月24日(ユリウス暦:1317年4月6日)出家。
正二位・大納言。
三条 実仲
(正親町三条)
[ 正嘉元(1257)年 ? ? ]
公貫男。母藤原経賢女。法名・勝空。号九条。
嘉元元年10月29日(ユリウス暦:1303年12月8日)叙従三位。
元亨2年3月6日(ユリウス暦:1322年3月24日)出家。
従二位・非参議。
三条 実任
(実名)
(正親町三条)
[ 文永元(1264)年 ? 暦応元/延元3年12月3日(ユリウス暦:1339年1月13日) ]
正四位下右中将公種男。母藤原為継女(安嘉門院女房大弐)。
嘉元3年3月8日(ユリウス暦:1305年4月2日)任参議。
正二位・中納言。
三条 公秀
(正親町三条)
[ 弘安8(1285)年 ? 貞治2/正平18年8月2日(ユリウス暦:1363年9月9日) ]
実躬男。母僧聖海女。号・正親町、八条。法名・禅定。
徳治2年4月3日(ユリウス暦:1307年5月5日)任参議。
文和2/正平8年7月2日(ユリウス暦:1353年8月1日)出家。
正二位・内大臣。
※法名は、尊卑分脈によれば、綽空。
三条 公躬
(正親町三条)
[ 正応3(1290)年 ? 暦応5/興国3年4月11日(ユリウス暦:1342年5月16日) ]
実躬男(実実仲二男)。母吉田経俊女。法名頓空。
文保元年12月22日(ユリウス暦:1318年1月25日)叙従三位。
暦応5/興国3年2月23日(ユリウス暦:1342年3月30日)出家。
従二位・非参議。
三条 公明
(公忠)
(正親町三条)
[ 弘安5(1282)年 ? 建武3/延元元年9月11日(ユリウス暦:1336年10月16日) ]
実仲男。母吉田経俊女。
文保3年3月9日(ユリウス暦:1319年3月31日)任参議。
正二位・権大納言。
三条 実治
(正親町三条)
[ 正応5(1292)年 ? 文和2/正平8年5月17日(ユリウス暦:1353年6月18日) ]
公明男(実舎弟)。
嘉暦3年6月13日(ユリウス暦:1328年7月20日)任参議。
従二位・権中納言。
三条 実継
(実世)
(正親町三条)
[ 正和3(1314)年 ? 嘉慶2/元中5年6月24日(ユリウス暦:1388年7月27日) ]
公秀男。号・後八条。
正慶元/元弘2年10月21日(ユリウス暦:1332年11月9日)任参議。
正慶2/元弘3年5月17日(ユリウス暦:1333年6月29日)止官位。
暦応元/延元3年12月1日(ユリウス暦:1339年1月11日)任参議。
嘉慶元/元中4(1387)年月日出家。
従一位・内大臣。
三条 公綱
(公長)
(正親町三条)
[ 生没年不明 ]
実任男。母藤原茂通女。法名・阿寂。
暦応3/延元5年4月1日(ユリウス暦:1340年4月28日)叙従三位。
貞和5/正平4年10月17日(ユリウス暦:1349年11月27日)出家。
従三位・非参議。
三条 実音
(正親町三条)
[ 元亨元(1321)年 ? 至徳3/元中3年2月16日(ユリウス暦:1386年3月16日) ]
公秀二男。母藤原家相女。
観応元/正平5年6月19日(ユリウス暦:1350年7月23日)叙従三位。
従一位・准大臣。
三条 公豊
(公景)
(正親町三条)
[ 正慶2/元弘3(1333)年 ? 応永13年6月24日(ユリウス暦:1406年7月9日) ]
実継男。母三条公明女。法名・皎空。号後三条内大臣、称名院。
文和4/正平10年8月13日(ユリウス暦:1355年9月19日)任参議。
応永2年11月28日(ユリウス暦:1396年1月9日)出家。
正二位・内大臣。
三条 実豊
[ ? ? 応永11年4月10日(ユリウス暦:1404年5月19日) ]
公豊男。
至徳2/元中2(1385)年初見、参議従三位。
正二位・権大納言。
藤原 公敦
[ ? ? 応永16(1409)年 ]
実音男。
応永2年6月25日(ユリウス暦:1395年7月12日)任参議。
従二位・権大納言。
三条 公雅
(正親町三条)
[ 至徳元/元中元(1384)年 ? 応永34年8月12日(ユリウス暦:1427年9月3日) ]
実豊男。法名・祐戒。号紹宏院。
応永13年3月24日(ユリウス暦:1406年4月12日)任参議。
正二位・権大納言。
※没日は、家譜によれば、13日。
三条 公頼
(正親町三条)
[ 生没年不明 ]
実音二男。
応永25年3月27日(ユリウス暦:1418年5月2日)任参議。
嘉吉4(1444)年以降、不見。正三位・参議。
正親町三条 実雅
[ 応永16(1409)年 ? 応仁元年9月3日(ユリウス暦:1467年10月1日) ]
三条公雅男。母家女房。号・青蓮華院。法名・常禧。
永享4年7月25日(ユリウス暦:1432年8月21日)任参議。
寛正2年7月29日(ユリウス暦:1461年9月3日)出家。
従一位・内大臣
。
公卿補任尻付
応永20年正月5日(ユリウス暦:1413年2月5日)叙爵(院御給)。
月日任侍従。
応永21年12月15日(ユリウス暦:1415年1月25日)従五位上(御即位叙位)。
応永22年正月6日(ユリウス暦:1415年2月15日)正五位下。
応永25年3月27日(ユリウス暦:1418年5月2日)阿波権介。
応永28年正月5日(ユリウス暦:1421年2月7日)叙従四位下。
応永29年3月27日(ユリウス暦:1422年4月18日)任左近少将。
応永30年正月5日(ユリウス暦:1423年2月15日)従四位上。
応永31年3月17日(ユリウス暦:1424年4月16日)兼尾張権介。
同10月13日転右近中将。
応永32年正月5日(ユリウス暦:1425年1月24日)正四位下。
永享2年3月30日(ユリウス暦:1430年4月22日)讃岐介。
同11月7日近江介。
永享4年4月23日(ユリウス暦:1432年5月22日)補蔵人頭。
三条 公綱
[ ? ? 文明3年壬8月10日(ユリウス暦:1471年9月24日) ]
公雅男(為舎兄実雅猶子)。
文安3年正月29日(ユリウス暦:1446年2月24日)任参議。
従一位・権大納言。
正親町三条 公躬
(公真・公治)
[ 永享12(1440)年 ? 明応4年3月12日(ユリウス暦:1495年4月7日) ]
実雅男。
長禄2年7月25日(ユリウス暦:1458年9月2日)任参議。
正二位・権大納言。
※生年は、家譜による。公卿補任の没年齢55歳から計算すると、嘉吉元(1441)年生まれ。
正親町三条 実興
[ 長禄元(1457)年 ? 文明13年正月3日(ユリウス暦:1481年2月1日) ]
公躬男。公綱猶子。
文明12年3月29日(ユリウス暦:1480年5月8日)任参議。
正四位上・参議。
正親町三条 実望
(実統)
[ 寛正4(1463)年 ? 享禄3年3月5日(ユリウス暦:1530年4月2日) ]
公治男。法名・盛空。号・後慈光院(家譜・慈光院)。
延徳4年正月21日(ユリウス暦:1492年2月19日)任参議。
大永3(1523)年出家。
正二位・内大臣。
正親町三条 公兄
[ 明応3(1494)年 ? 天正6年正月20日(ユリウス暦:1578年2月26日) ]
実望男。母
今川義忠
女。法名・紹空。号廊然院。
永正15年12月30日(ユリウス暦:1519年1月30日)任参議。
天文23年4月28日(ユリウス暦:1554年5月29日)出家。正二位・内大臣。
正親町三条 実福
[ 天文5(1536)年 ? 永禄11年正月25日(ユリウス暦:1568年2月22日) ]
公兄二男。母富樫加賀介女。
弘治3年4月15日(ユリウス暦:1557年5月13日)任参議。
従二位・権中納言。
正親町三条 公仲
[ 弘治3年4月20日(ユリウス暦:1557年5月18日) ? 文禄3年6月26日(1594年8月12日) ]
実福男。
天正13年7月13日(1585年8月8日)任参議。
正三位・権中納言。慶長5年6月26日(1600年8月5日)贈准大臣。
正親町三条 実有
(実助)
[ 天正16(1588)年 ? 寛永10年7月13日(1633年8月17日) ]
公仲男。母勧修寺晴秀女。
慶長17年正月11日(1612年2月12日)任参議。
正二位・権大納言。
正親町三条 公高
[ 元和5年8月27日(1619年10月4日) ? 慶安元年9月28日(1648年11月13日) ]
実有男。母兵部大輔源実康女。
寛永16年後11月17日(1639年12月11日)任参議。
正三位・参議。
正親町三条 実昭
(季成)
[ 寛永元年11月24日(1625年1月3日) ? 寛文8年5月7日(1668年6月16日) ]
公高男(実者舎弟・実有男)。号押小路。
承応4年2月8日(1655年3月15日)任参議。
従三位・参議。
※生年月日は、家譜によれば、12月14日。系図纂要によれば、11月4日。
正親町三条 公廉
[ 慶安2年3月17日(1649年4月28日) ? 寛文11年8月28日(1671年9月30日) ]
実昭男。母左中将下冷泉為景女。
寛文11年8月7日(1671年9月9日)任参議。
寛文11年8月8日(1671年9月10日)辞官。
正四位下・参議。
正親町三条 実久
[ 明暦2年6月21日(1656年8月11日) ? 元禄8年11月11日(1695年12月16日) ]
公廉男(実実昭次男)。一字名・親
〔類聚名伝抄〕
。
貞享4年2月25日(1687年4月7日)任参議。
正三位・権中納言。
正親町三条 公統
(公光)
[ 寛文8年2月18日(1668年3月30日) ? 享保4年8月16日(1719年9月29日) ]
実久男(実公廉男)。母家女房。
元禄9年12月28日(1697年1月20日)任参議。
正二位・権大納言。
※系図纂要によれば、実父は正親町三条実昭。
正親町三条 公積
[ 享保6年9月3日(1721年10月23日) ? 安永6年6月2日(1777年7月6日) ]
左近衛権中将実彦男。母家女房。法名・杯水。
寛保3年6月29日(1743年8月18日)任参議。
宝暦10年5月22日(1760年7月4日)出家。
従二位・権大納言。
正親町三条 実同
[ 寛延元年9月3日(1748年9月25日) ? 天明5年正月15日(1785年2月23日) ]
公積男。母三条西公福女。
明和6年8月19日(1769年9月18日)任参議。
9月27日拝賀着陣。同月28日聴直衣。
明和6年12月18日(1770年1月14日)叙従三位。
明和7年11月24日(1771年1月9日)為院別当。
明和8年7月27日(1771年9月6日)辞。
安永2年正月25日(1773年2月16日)正三位。
安永4年後12月2日(1776年1月22日)叙従二位。
安永8年5月4日(1779年6月17日)還任。
同日兼左近衛権中将。同月18日拝賀着陣。同月19日聴直衣。
天明5年正月14日(1785年2月22日)辞。
従二位・参議。
公卿補任尻付
寛延3年正月5日(1750年2月11日)叙爵(3歳)。
宝暦3年12月22日(1754年1月15日)従五位上(6歳)
〔家譜作12日〕
。
宝暦5年7月29日(1755年9月5日)侍従(8歳)。
宝暦6年11月22日(1756年12月13日)元服昇殿(9歳)。同日正五位下。
宝暦8年正月5日(1758年2月12日)従四位下(11歳)。
宝暦10年12月26日(1761年1月31日)従四位上(13歳)。
宝暦11年正月30日(1761年3月6日)右権少将(14歳)。
宝暦11年2月16日(1761年3月22日)拝賀。
宝暦12年後4月6日(1762年5月29日)正四位下(15歳)。
宝暦14年正月10日(1764年2月11日)右権中将(17歳)。
同月16日拝賀。
正親町三条 公則
[ 安永3年6月16日(1774年7月24日) ? 寛政12年9月1日(1800年10月18日) ]
実同男。母家女房。
寛政8年4月24日(1796年5月30日)任参議。
正三位・権中納言。
正親町三条 実義
[ 寛政10年11月2日(1798年12月8日) ? 文政3年6月4日(1820年7月13日) ]
公則男。母勧修寺経逸女。
文化14年12月27日(1818年2月2日)任参議。
正三位・参議。
正親町三条 実愛
[ 文政3年12月5日(1821年1月8日) ? 明治42(1909)年10月20日 ]
実義二男。母松平(戸田)丹波守光年女。
室今城定章女
〔家譜等による。嵯峨実愛日記元治元年8月2日条には室章子とある〕
。
夫人宇野
〔華族名鑑(1900)先代の部による。天保11年9月6日(1840年10月1日)生〕
。
嘉永元年3月9日(1848年4月12日)任参議(右中将如旧)。
同月24日拝賀着陣。同月25日聴直衣。同日直衣始。
5月18日兼丹波権守。同日叙従三位(小除目次)。
嘉永2年5月30日(1849年7月19日)任権中納言。
6月27日聴帯剣。同日拝賀着陣。
同月28日聴直衣。同日直衣始。
嘉永3年6月28日(1850年8月5日)兼右衛門督。補使別当(昨日分)。
9月14日拝賀着陣。
11月29日叙正三位。
12月18日着陣。
嘉永4年12月2日(1851年12月24日)辞督別当等。
嘉永5年正月27日(1852年2月16日)叙従二位。
2月12日着陣。
安政2年正月22日(1855年3月10日)叙正二位。
同月25日着陣。
安政6年8月23日(1859年9月19日)任権大納言。
11月2日拝賀着陣。同月5日直衣始。
万延元年7月28日(1860年9月13日)着陣(服後)。
文久3年2月14日(1863年4月1日)辞退。
元治元年10月22日(1864年11月21日)還任(推任)。
11月19日着陣。
慶応元年12月18日(1866年2月3日)辞退。
同月21日聴本座(議奏勤仕。殊国事励勤務。且有家例之間被聴)。
明治元年10月14日(1868年11月27日)除服出仕(別勅)。
明治元年時、正二位・前権大納言・本座宣下。
※生年月日は、家譜・華族鑑も文政3年12月5日。
公卿補任尻付
文政5年4月26日(1822年6月15日)叙従五位下(3歳)。
文政6年12月19日(1824年1月19日)叙従五位上(4歳)。
文政8年正月5日(1825年2月22日)叙正五位下(6歳)。
文政10年4月11日(1827年5月6日)任侍従(8歳)。
同年5月21日元服聴昇殿。
同年後6月10日叙従四位下。
文政12年正月25日(1829年2月28日)叙従四位上(10歳)。
文政13年7月28日(1830年9月14日)任右権少将(11歳)。
同年8月27日拝賀。
天保2年正月5日(1831年2月17日)叙正四位下(12歳)。
天保4年8月29日(1833年10月12日)服解(母)。
同年10月28日除服出仕復任。
天保7年12月19日(1837年1月25日)転権中将(17歳)。
天保8年正月1日(1837年2月5日)拝賀。
天保12年後正月22日(1841年3月14日)為新清和院別当(院号日)。
同月27日太上天皇諡号諫策命並奉幣使次官。
弘化3年7月23日(1846年9月13日)賜前新清和院御服。
同8月23日除服宣下。
戸田
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信濃 松本藩
譜代 帝鑑間 六万三千石
葬地は、染井 共葬地
〔華族名鑑〕
戸田康泰が明治17(1884)年7月8日子爵授爵。
美濃 野村藩
譜代 菊間 一万三千九十九石
葬地は、駒込 蓮光寺
〔華族名鑑〕
戸田氏良が明治17(1884)年7月8日子爵授爵。
下野 足利藩
譜代 菊間 一万千石
葬地は、駒込 松源寺
〔華族名鑑〕
戸田忠行が明治17(1884)年7月8日子爵授爵。
下野 宇都宮藩
譜代 雁間 七万七千八百五十石
葬地は、駒込 松源寺
〔華族名鑑〕
戸田忠友が明治17(1884)年7月8日子爵授爵。
美濃 大垣藩
譜代 帝鑑間 十万石
葬地は、駒込 蓮光寺
〔華族名鑑〕
戸田氏共が明治17(1884)年7月7日伯爵授爵。
下野 高徳藩
譜代 菊間 一万千百三十九石
戸田忠義が明治17(1884)年7月8日子爵授爵。
※最終更新日 2017.03.10
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