大臣家(だいじんけ)
三条西

三条西【さんじょうにし】

本姓:藤原氏。華族類別録第五十三類。
旧家
内々
非門流
藤原北家公季(閑院)流。正親町三条実継の次男公時を祖とする。
二尊院・盧山寺等伝奏〔※雲上明覧大全文久元年版巻末によれば、この他に禅林寺・粟生光明寺・遣迎院〕
庶流に実条の子公種を祖とする羽林家の武者小路家と、公勝朝臣の子公音を祖とする羽林家の押小路家と、武者小路実陰の子重季を祖とする羽林家の高松家がある。

家紋

八つ丁字。
家業 香道・和歌・有職故実。
江戸期石高 502石。
明治期爵位 伯爵。明治17(1884)年7月7日公允伯爵授爵。
菩提所 清浄華院。
居所 寺町通椹木町角。

三条西家系図

公時までの系図は正親町三条家系図を参照。
公時 ━ 実清 ┳ 公保 ┳ 実連
  ┃   ┣ 実隆
  ┃   ┣ 公範(延暦寺。証義・僧正・
  ┃   ┃   法輪院。依武命猶子。
  ┃   ┃   実近江国人云云)
  ┃   ┗ 女子
  ┗ 梵欣(侍者)
┳ 公順(別当〔系図纂要作西堂別当〕。僧正。
  ┃   勧修寺教秀三女。)
  ┣ 公条 ┳ 実世
  ┃   ┣ 兼成(元親氏。水無瀬流相続)
  ┃   ┣ 女子中院通為室。通勝母)
  ┃   ┣ 女子稲葉貞通母。
  ┃   ┃   *戦国人名事典による)
  ┃   ┗ 女子大久保忠員室。
  ┃       ※寛政重修諸家譜等による)
  ┣ 保子(母同。従二位〔系図纂要〕。
  ┃   九条尚経室。稙通母)
  ┣ 女子(母同。正親町実胤室。公叙母)
  ┗ 女子細川晴元養女。勝興寺左計室。
      *雲竜山勝興寺系譜による)
┳ 公世(侍従従五位上。母吉田兼満卿女。
  ┃   天文13年2月8日(ユリウス暦:
  ┃   1544年3月1日)卒8歳〔系図纂要〕。
  ┃   中院一実堯純〔系図纂要〕)
  ┣ 公尊(改公陸〔系図纂要〕。母正親町三条公兄女。
  ┃   右中将従四位下。
  ┃   永禄4年12月6日(ユリウス暦:1562年1月10日)
  ┃   卒14歳。後定聚院円空融空〔系図纂要〕)
  ┣ 公国 ┳ 実条
  ┃   ┣ 公広三条実綱嗣)
  ┃   ┗ 女子(※庭田家譜による。庭田重秀母)
  ┣ 実綱三条公頼嗣)
  ┗ 女子(系図纂要によれば高倉永慶母)
┳ 公勝 (母家女〔系図纂要〕。従四位下。侍従。
  ┃   慶長2年10月18日(1597年11月27日)生。
  ┃   寛永3年9月23日(1626年11月11日)卒。
  ┃   最勝院観空泰然〔系図纂要〕)
  ┣ 公種〔武者小路
  ┣ 泰長(※野宮家譜によれば、三男。堀尾右京。娘が正親町公通室。定俊実母)
  ┣ 実号 (※高松家譜による。号西郊高松。 ━ 実信 (母福島掃部頭正頼女。 ━ 実陰(武者小路公種嗣)
  ┃   実二男。童名薫丸。母家女房。     童名万丸。  
  ┃   左中将。     寛永11(1634)年生。  
  ┃   寛文2年6月17日(1662年8月1日)卒。     備前守。従四位下。  
  ┃   葬于蘆山寺。※系図纂要によれば、     左中将。  
  ┃   名前は実名、母法印玄以女、     系図纂要によれば、  
  ┃   従五位下)     貞享5年9月2日  
  ┃         (1688年9月25日)卒。  
  ┃         清光院実入宜観)  
  ┗ 光深(※興福寺院家伝・広橋家譜による。広橋兼賢猶子。修南院)
┳ 実教 ━ 公福 ┳ 実称
  ┃   ┣ 公純花園公諸嗣)
  ┃   ┣ 女子正親町三条公積室。
  ┃   ┃   実同母)
  ┃   ┗ 女子(四条隆叙室。
  ┃       *華族類別譜による)
  ┣ 公栄清水谷実任嗣)
  ┣ 公音〔押小路
  ┗ 女子(※広橋家譜・系図纂要・知譜拙記による。
      広橋綏光室。兼茂母)
┳ 公里(三条実顕猶子。母実顕女。
  ┃   右中将。正四位下。
  ┃   寛延2年4月30日(1749年6月14日)生。
  ┃   明和2年8月11日(1765年9月25日)卒)
  ┣ 廷季 ━ 実勲
  ┣ 女子押小路実富妻。*華族類別譜による)
  ┣ 公隆武者小路実純養子。*華族類別譜による)
  ┗ 公岑押小路実富養子)
┳ 季知 ┳ 公允 (徳丸。母家女房。
  ┃   ┃   天保12年5月22日
  ┃   ┃   (1841年7月10日)生。
  ┃   ┃   明治37(1904)年6月卒〔
  ┃   ┃   現代華族譜要〕)
  ┃   ┣ 女子(幾子。白川資訓妻。
  ┃   ┃   嘉永元年4月28日
  ┃   ┃   (1848年5月30日)生〔華族鑑〕。
  ┃   ┃   明治39(1906)年12月卒〔
  ┃   ┃   現代華族譜要〕)
  ┃   ┣ 乗禅(東寺遍智院。法眼)
  ┃   ┗ 女子(浜子)
  ┗ 女子(己巳。押小路公連妻)
■色の名前は公卿。クリックすると、下段の詳細項へ移動します。
※公卿名をクリックすると、系図中の位置へ移動します。

三条西家公卿一覧

三条西 公時
[ 暦応2/延元4(1339)年 〜 永徳3/弘和3年3月11日(ユリウス暦:1383年4月14日) ]
正親町三条実継二男。母正親町三条公明女。
応安3/建徳元年8月14日(ユリウス暦:1370年9月4日)任参議。
従二位・権大納言。
三条西 実清
[ 応安6/文中2(1373)年 〜 応永13年2月16日(ユリウス暦:1406年3月6日) ]
公時男。
応永10年3月22日(ユリウス暦:1403年4月13日)任参議。
従三位・権中納言。
※生年は、家譜による。
※参議任官日は、系図纂要作29日。
※没年は、知譜拙記によれば、応永10年3月26日(ユリウス暦:1403年4月17日)薨(34歳)とある。
三条西 公保
[ 応永5(1398)年 〜 長禄4年正月28日(ユリウス暦:1460年2月20日) ]
実清男(実正親町三条公豊男)。法名・縁空。号・後称名院。
応永25(1418)年任参議。
康正元年8月7日(ユリウス暦:1455年9月18日)出家。
従一位・内大臣。
三条西 実連(本名実貫)
[ 嘉吉2(1442)年 〜 長禄2年10月20日(ユリウス暦:1458年11月26日) ]
公保男。母左大弁藤原房長朝臣女。
長禄2年10月7日(ユリウス暦:1458年11月13日)任参議。
正四位下・参議。
三条西 実隆(本名公世・公延)
[ 康正元(享徳4)年後4月25日(ユリウス暦:1455年6月10日) 〜 天文6年10月3日(ユリウス暦:1537年11月5日) ]
公保次男。母左大弁藤原房長朝臣女。法名・堯空。道号・耕隠〔系図纂要作科穏〕。
号・逍遥院〔系図纂要作逍遥院科穏堯空〕。
一字名・雪 〔類聚名伝抄〕
文明9年12月30日(ユリウス暦:1478年2月2日)任参議。
永正13年4月13日(ユリウス暦:1516年5月14日)出家。
正二位・内大臣。
「実隆公記」
※生年月日は、家譜による。
※公卿補任によると、外祖父房長の官位は右大弁。
参議任官日は、系図纂要作文明8年12月30日。
三条西 公条
[ 文明19年5月21日(ユリウス暦:1487年6月12日) 〜 永禄6年12月2日(ユリウス暦:1563年12月17日) ]
実隆男。母勧修寺教秀三女。号・称名院。法名・仍覚。一字名・蒼 〔類聚名伝抄〕
永正4年4月26日(ユリウス暦:1507年6月6日)任参議。
天文13年2月27日(ユリウス暦:1544年3月20日)出家〔於二尊院(家譜)〕
正二位・右大臣。
※生年月日は、家譜も文明19年5月21日。
※出家日は、系図纂要作28日。
三条西 実世(改名実澄・又改実枝)
[ 永正8年8月4日(ユリウス暦:1511年8月27日) 〜 天正7年正月24日(ユリウス暦:1579年2月19日) ]
公条男。母甘露寺元長女。法名・豪空〔家譜作一云玄覚。系図纂要作玄覚豪空〕
号・三光院。一字名・龍 〔類聚名伝抄〕
享禄3年正月28日(ユリウス暦:1530年2月25日)任参議。
正二位・内大臣。
三条西 公明(改名公国・本名公光)
[ 弘治2(1556)年 〜 天正15年11月9日(1587年12月8日) ]
実枝男。母正親町三条公兄女。号・円智院。
天正元年12月12日(ユリウス暦:1574年1月4日)任参議。
正二位・内大臣。
※没月は、系図纂要作12月。
三条西 実条
[ 天正3年正月26日(ユリウス暦:1575年3月8日) 〜 寛永17年10月9日(1640年11月22日) ]
公国男。母西園寺公朝女。号・香雲院〔系図纂要作香雲院英嶽泰空〕。
慶長2年2月2日(1597年3月19日)任参議。
従一位・右大臣。
「詠歌聞書」
三条西 実教
[ 元和5年7月5日(1619年8月14日) 〜 元禄14年10月19日(1701年11月18日) ]
侍従従四位下公勝男。実条孫。霊心院真覚元空〔家譜〕
寛永16年後11月17日(1640年1月10日)任参議。
正二位・権大納言。
三条西 公福(本名公伊)
[ 元禄11年11月17日(1698年12月18日) 〜 延享2年9月17日(1745年10月12日) ]
実教男。母家女房。乗雲院円常大空〔家譜〕
享保3年6月4日(1718年7月1日)任参議。
正二位・権大納言。
三条西 実称
[ 享保12年3月23日(1727年5月13日) 〜 寛政3年9月21日(1791年10月18日) ]
公福男。母家女房。隨誠院広海静空〔家譜〕
延享5年6月28日(1748年7月23日)任参議。
正二位・権大納言。
公卿補任尻付
享保12年3月23日(1727年5月13日)誕生。
享保16年12月25日(1732年1月22日)叙爵。
享保18年12月27日(1734年1月31日)侍従。
元文元年12月12日(1737年1月12日)従五位上。
元文3年4月19日(1738年6月6日)正五位下。
元文5年12月16日(1741年2月1日)元服昇殿。右少将。
寛保元年6月15日(1741年7月27日)従四位下。
寛保3年6月29日(1743年8月18日)従四位上。
延享元年12月19日(1745年1月21日)右中将。
延享2年正月21日(1745年2月21日)兼美作権介。
同9月17日服解。
同11月28日除服出仕復任。
延享3年4月2日(1746年5月21日)正四位下。
延享4年3月16日(1747年4月25日)兼春宮権亮(立坊日)。
同5月2日止権亮(依受禅)。
同日為院司。
三条西 廷季
[ 寛延3年11月14日(1750年12月12日) 〜 寛政12年正月20日(1800年2月13日) ]
三条実顕養子(実三条西実称次男)。実母三条実顕女。
隨雲院春厳恵空〔家譜〕
安永6年8月20日(1777年9月21日)任参議。
正二位・権大納言。
※血縁関係は、公卿補任・家譜によるものだが、系図纂要では、実は三条実顕男で、三条西実称の子公里朝臣の嗣子となっている。
三条西 実勲
[ 天明5年12月17日(1786年1月16日) 〜 弘化2年7月21日(1845年8月23日) ]
廷季男。母広幡前豊女。家譜によれば、三条実起養子。法名端空。
文化11年11月7日(1814年12月18日)任参議。
天保4年7月17日(1833年8月31日)出家。
正二位・権中納言。
三条西 季知
[ 文化8年後2月26日(1811年4月18日) 〜 明治13(1880)年8月24日 ]
実勲男。母三条実起女。幼名銓丸〔家譜〕
家譜によれば、三条公修養子。
室山内登三郎〔豊敬〕女〔家譜〕。 継室仙石讃岐守叔母〔久道女〕。
嘉永3年6月27日(1850年8月4日)任参議。
嘉永3年8月16日(1850年9月21日)拝賀着陣。
同月17日聴直衣。同日直衣始。
嘉永3年11月29日(1851年1月1日)叙従三位。
嘉永5年正月17日(1852年2月6日)叙正三位。
安政4年5月15日(1857年6月6日)任権中納言(小除目)。
同日聴帯剣。同日拝賀着陣。同月27日聴直衣。
安政4年12月8日(1858年1月22日)叙従二位。
万延元年11月29日(1861年1月9日)為博経親王家別当。
万延2年正月23日(1861年3月4日)叙正二位。
万延2年2月17日(1861年3月27日)着陣。
文久2年9月5日(1862年10月27日)服解。母。
文久2年10月25日(1862年12月16日)除服出仕復任。
文久3年8月24日(1863年10月6日)止官。
慶応3年12月8日(1868年1月2日)正二位・前権中納言に復位。
慶応4年2月2日(1868年2月24日)還任権中納言。
慶応4年3月18日(1868年4月10日)兼皇太后宮権大夫。
慶応4年8月22日(1868年10月7日)任権大納言。
明治元年時、正二位・権大納言(58歳)。
公卿補任尻付
文化9年正月20日(1812年3月3日)叙従五位下(2歳)。
文化13年正月18日(1816年2月15日)叙従五位上(6歳)。
文政元年12月19日(1819年1月14日)叙正五位下(8歳)。
文政7年後8月28日(1824年10月20日)任侍従(14歳)。
文政7年11月26日(1825年1月14日)元服聴昇殿。
文政7年12月19日(1825年2月6日)叙従四位下。
文政8年2月11日(1825年3月30日)任右近衛権少将(15歳)。
同月27日拝賀。
文政9年正月21日(1826年2月27日)叙従四位上(16歳。去5分)。
文政11年2月20日(1828年4月4日)叙正四位下(18歳。去正20分)。
文政13年6月10日(1830年7月29日)転権中将(20歳)。
文政13年8月8日(1830年9月24日)拝賀。
天保5年6月7日(1834年7月13日)為前内大臣公修公養子。
天保9年5月18日(1838年7月9日)右近衛権中将。
弘化2年3月23日(1845年4月29日)還任左近衛権中将(35歳)。
弘化2年5月2日(1845年6月6日)拝賀。
弘化2年7月27日(1845年8月29日)服解。父。
弘化2年9月20日(1845年10月20日)除服出仕復任。
弘化4年3月14日(1847年4月28日)兼皇太后宮権亮。同日拝賀。
弘化4年10月13日(1847年11月20日)止皇太后宮権亮(依院号也)。
嘉永元年12月25日(1849年1月19日)為内教坊別当。
※没年は、現代華族譜要による。
    

  • 本サイトの公卿に関するデータは、
    東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
    公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
    尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館
    新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
    公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
    系図纂要(名著出版)
    を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。 知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
  • 菩提寺・居所に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕
    公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
    を基本としました。 家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
    実地調査はおこなっておりません。
  • 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。
  • 家紋に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
    日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
  • 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、
    その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。
    ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。 ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。
    和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。
    西暦への変換に関しては、和暦の各月の大小の値を 「日本暦日原典」内田正男/著に従って、算出したものです。
  • 父母名などを表記する場合、公卿に関しては、官位官職、卿・公の尊称は省略しました。
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