系図は、本朝皇胤紹運録を基本とした。〔〕書きで出典が書かれていない事項は、本朝皇胤紹運録
に記載されたもの。
纂輯御系図、皇親系、詰所系図(系図綜覧所収執次詰所御系譜)、系図纂要との異同を校訂した。
紙幅の関係上、一部省略している事項もある。
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生没年
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正和2年7月9日(ユリウス暦:1313年8月1日)〜貞治3/正平19年7月7日(ユリウス暦:1364年8月5日)
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異称
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量仁。勝光智。光智。
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父
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後伏見天皇。
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母
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西園寺公衡女寧子(広義門院)。
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配偶者
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懽子内親王
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宣政門院。後醍醐天皇皇女。母西園寺実兼女禧子〔後京極院〕。斎宮。
女院小伝によれば、元応元年6月26日(ユリウス暦:1319年7月14日)為内親王。同年10月28日(ユリウス暦:1319年12月10日)叙一品。
元徳2年12月19日(ユリウス暦:1331年1月27日)卜定。元徳3年正月12日(ユリウス暦:1331年2月19日)准三宮。
元徳3/元弘元(1331)年退下。建武2年2月2日(ユリウス暦:1335年2月25日)院号。
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寿子内親王
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徽安門院。花園天皇皇女。母宣光門院。 文保2(1318)年生〔皇親系〕。
建武4/延元2年2月3日(ユリウス暦:1337年3月5日)為内親王。同7日准三后。同日院号。
延文3/正平13年4月3日(ユリウス暦:1358年5月11日)薨〔皇親系〕。
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典侍
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藤原秀子
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陽禄門院。三条公秀〔正親町三条〕女。称三条局。従三位。准三宮。
応長元(1311)年生〔女院小伝〕。
建武3/延元元年11月25日(ユリウス暦:1336年12月28日)為典侍〔女院小伝〕。
建武4/延元2年3月29日(ユリウス暦:1337年4月30日)叙従三位〔女院小伝〕。
文和元/正平7年10月29日(ユリウス暦:1352年12月6日)准三宮〔女院小伝〕。
同日院号〔尊卑分脈。※本朝女后名字抄27日〕。
同年11月12日(ユリウス暦:1352年12月19日)出家〔女院小伝〕。同28日(ユリウス暦:1353年1月4日)薨〔女院小伝・女院記〕。
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藤原氏
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正親町公蔭女。徽安門院一条。後称対御方。
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在位
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元徳3/元弘元年9月20日(ユリウス暦:1331年10月22日)〜正慶2/元弘3年5月25日(ユリウス暦:1333年7月7日)
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皇居
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陵名
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山国陵。
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光厳天皇系図
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※最終更新日 2015.10.10
- 本サイトの公卿に関するデータは、
東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館。 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
系図纂要(名著出版)
を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。
知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
- 菩提寺・居所に関しては、
雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕と
公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
を基本としました。
家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
実地調査はおこなっておりません。
- 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。
- 家紋に関しては、
雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
- 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、
その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。
ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。
ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。
和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。
西暦への変換に関しては、和暦の各月の大小の値を
「日本暦日原典」内田正男/著に従って、算出したものです。
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父母名などを表記する場合、公卿に関しては、官位官職、卿・公の尊称は省略しました。
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