村上源氏。久我家庶流。中院家祖通方の三男雅家を祖とする。
顕能が伊勢国司に任ぜられてから後、戦国大名へと成長する。
八代具教の時、織田信長との和議で、信長の次男信雄を養子に迎えたが、信雄によって北畠一門は殺害され滅亡した。
別称、多気。家紋、割菱。
庶流に大河内氏・木造氏がある。また、寛永譜・寛政譜等によれば、
藤方氏〔陸田城主朝成の家系〕も北畠氏の一族という。
多気御所・・・三重県津市美杉町上多気1148にある北畠神社は、北畠氏館跡に鎮座する。
北畠氏館跡庭園で知られ、山頂には霧山城跡がある。
北畠氏系図
中院通方
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雅家
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師親
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師重
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親房
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顕家
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顕成
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親成
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師清(村上山城守)
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女子(結城親朝養育。安東太郎貞季妻)
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顕信
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信親(右中将。正四位下)
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守親
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親能
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親統
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顕能〔伊勢国司家。⇒木造・大河内〕
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顕雄
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房雄〔小原〕
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親雄
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顕豊(岩内)
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房勝
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之顕
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房信〔田村〕
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女子(右少将持定室)
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女子(顕子。後村上帝中宮)
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通房
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持房
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持定
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顕持
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顕光(顕統子云々)
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定能
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定統
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顕統
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雅持
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親家(醍醐寺)
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実助(醍醐寺。金剛王院。大僧正。東寺二長者。
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二条師忠猶子〔金剛王院門跡列祖次第〕)
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源助
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女子(護良親王妾。陸良親王母)
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雅世(左少将*寛政重修諸家譜による。尊卑分脈作雅家子。)
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女子(従三位親子。後醍醐帝局民部卿。皇親系によれば、
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初亀山天皇後宮、生一皇子)
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通寛
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雅重
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師行
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雅行
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家房
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具行
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家資
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家泰
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家親
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観覚(権大僧正。*系図纂要作権大僧都)
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親源(延暦寺。楞厳院検校。天台座主。大僧正護持。檀那院)
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伊勢国司家
顕能
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顕俊〔⇒木造〕
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顕泰
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満泰(※尊卑分脈无。系図纂要・星合系図による。本名親能。
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従五位下。左少将。応永6年11月29日(ユリウス暦:1399年12月26日)討死〔系図纂要〕)
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俊泰(木造俊通嗣。寛政重修諸家譜による)
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満雅
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教具
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政具
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材親
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⇒
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親忠(大河内親郷嗣)
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※以下は、系図纂要・北畠系図を
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基本としたが、星合系図とは
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かなり異なる。
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孝縁(興福寺別当。僧正。東門院)
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具盛(為神戸家養子。号神戸蔵人)
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女子(長野宮内少輔具藤室)
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親郷(大河内顕雅嗣)
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定具〔佐田〕
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女子(※系図纂要による。神戸為盛室)
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顕雅※1〔⇒大河内〕
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顕相(※系図纂要による。除野。母同)
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※1 中院家略系図・尊卑分脈・系図纂要による。
寛政重修諸家譜・続群書類従巻第百三十五星合系図によれば、北畠満雅の子。
⇒
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晴具
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具教
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具房
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信意(具豊。信雄。実織田信長二男。
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北畠三助。左中将。従四位下)
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親顕
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具藤(藤教。長野藤定養子)
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某(※系図纂要によれば名は親誠。式部丸
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北畠式部大輔。同長野次郎於田丸被殺)
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具成(少将)
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女子(堀江治部大輔教賢妻。
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元和5年7月14日(1619年8月23日)卒。法名清春)
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女子(田丸中務大輔具安妻)
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女子(和州吉野飯貝門跡舎弟〔系図纂要作妻〕)
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女子(津川玄蕃充妻)
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女子(織田信雄室。秀雄母)
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男子(※系図纂要によれば童名徳松丸。同父於三重御所被殺)
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男子(※系図纂要によれば童名亀松丸。同上)
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具親(初め興福寺東門院僧侶。後、還俗。宮内大輔。
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母六角承禎女〔星合系図〕。
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天正14年6月9日(1586年7月25日)卒。速門院寂道蘇心不叶常入)
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具政(木造俊茂養子)
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親泰(頼房。大河内親忠養子)
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女子(木造具康室)
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具祐(※公卿補任の記述に従うが、星合系図・寛政重修諸家譜は、頼房〔親泰〕男)
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政能〔厚見、後改渥美〕
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北畠 雅家
- [ 建保3(1215)年 〜 文永11年3月22日(ユリウス暦:1274年4月30日) ]
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中院通方男。母源雅頼女。号・万里小路、北畠。法名・如覚。
大雅院高山龍松〔系図纂要・北畠家御代々御法名〕。
-
宝治元年12月8日(ユリウス暦:1248年1月5日)任参議。
文永5年10月5日(ユリウス暦:1268年11月10日)出家。 正二位・権大納言。
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北畠 師親
- [ 寛元2(1244)年 〜 正和4年10月6日(ユリウス暦:1315年11月3日) ]
-
雅家一男。母鷹司頼平女。
法名・覚円。源徳院大通覚円〔系図纂要・北畠家御代々御法名〕。
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弘長2年12月21日(ユリウス暦:1263年2月1日)叙従三位。
正応2年9月7日(ユリウス暦:1289年9月22日)出家。 正二位・権大納言。
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※生年は、系図纂要作仁治2(1241)年。
※没年は、尊卑分脈・系図纂要による。尊卑分脈異本作正和4年4月16日(ユリウス暦:1315年5月19日)。
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北畠 師重
- [ 文永7(1270)年 〜 元亨2年正月13日(ユリウス暦:1322年1月30日) ]
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師親男。母宗顕法印女〔系図纂要〕。
法名・経覚。法隆院殿円超経覚大居士〔北畠家御代々御法名〕。
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正応4年3月25日(ユリウス暦:1291年4月25日)叙従三位。
徳治2年7月28日(ユリウス暦:1307年8月26日)出家。 正二位・権大納言。
- ※法名は、尊卑分脈によれば、深覚。
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北畠 師行
- [ ? 〜 永仁4年4月3日(ユリウス暦:1296年5月6日) ]
-
雅家二男。母平信繁女。
-
永仁3年8月5日(ユリウス暦:1295年9月15日)叙従三位。
従三位・非参議。
-
北畠 親房
- [ 永仁元(1293)年 〜 ? ]
-
師重男。母左少将隆重女。祖父師親為子。
法名・宗去〔北畠系図作宗玄。系図纂要作宗意覚元〕。
天徳院台宗覚元〔系図纂要〕。
一品准大臣南朝詔云々〔尊卑分脈・北畠系図〕。
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延慶元年11月8日(ユリウス暦:1308年12月20日)叙従三位。
元徳2年9月17日(ユリウス暦:1330年10月29日)出家。 正二位・権大納言。
- ※生年月日は、系図纂要作正月13日。
源 持房(本名師国)[ 永仁4(1296)年 〜 ? ]
正和3年10月21日(ユリウス暦:1314年11月29日)叙従三位。 元徳3年7月5日(ユリウス暦:1331年8月9日)出家。 従二位・参議。
北畠 雅行[ 弘安9(1286)年 〜 ? ]
師行男。
正和3年9月22日(ユリウス暦:1314年10月31日)叙従三位。 元徳2(1330)年出家。 正三位・参議。
北畠 具行[ 正応3(1290)年 〜 正慶元/元弘2年6月19日(ユリウス暦:1332年7月12日) ]
師行二男。
正中3年2月19日(ユリウス暦:1326年3月23日)任参議。 従二位・権中納言。 於近江国柏原斬首。
北畠 顕家[ 文保2年3月2日(ユリウス暦:1318年4月3日) 〜 建武5/延元3年5月22日(ユリウス暦:1338年6月10日) ]
親房男。母藤原[中御門]為行女従一位行子〔系図纂要〕。
長興寺道音〔系図纂要〕。
元徳3年正月13日(ユリウス暦:1331年2月20日)任参議。 従二位・権中納言〔系図纂要によれば、贈左大臣従一位〕。 於泉州境浦合戦場害死。
※生年の月日は系図纂要による。
北畠 教具[ 応永30(1423)年 〜 文明3年3月23日(ユリウス暦:1471年4月13日) ]
中将満雅朝臣男。金剛宝寺興運常感〔系図纂要〕。
宝徳3(1451)年任参議。 従二位・権大納言。 伊勢国にて逝去。
※没日は、尊卑分脈・北畠系図作22日。
北畠 材親(本名具方)[ 応仁2(1468)年 〜 永正8年5月21日(ユリウス暦:1511年6月16日) ]
右近権中将政具(政郷)朝臣一男。教具孫。法名・心江。
浄眼寺無外逸方〔系図纂要〕。
文亀2年8月23日(ユリウス暦:1502年9月24日)任参議。 永正8年3月2日(ユリウス暦:1511年3月30日)出家。 正三位・権大納言。
※没年は系図纂要による。戦国人名辞典等は永正14(1517)年。
北畠 晴具(本名親平。次、具国)[ 文亀3(1503)年 〜 永禄6年9月17日(ユリウス暦:1563年10月4日) ]
材親男。法名天祐。義照院心月天祐〔系図纂要〕。
大永8年3月6日(ユリウス暦:1528年3月26日)任参議。 天文5(1536)年出家。 従四位下・参議。
※法名・没年は、系図纂要・諸家補任による。
北畠 具祐(本名具房。次、具種)[ ? 〜 元亀3年11月9日(ユリウス暦:1572年12月13日) ]
材親男。法名・天全〔星合系図・寛政重修諸家譜作天翁〕。
天文14年正月27日(ユリウス暦:1545年3月10日)任参議。 天文17(1548)年出家。 従四位下・参議。
※尊卑分脈によれば、親能の子。星合系図・寛政重修諸家譜・系図纂要は、頼房〔親泰〕男。
※没年は、星合系図・寛政重修諸家譜・系図纂要による。
北畠 具教[ 享禄元(1528)年 〜 天正4年11月26日(ユリウス暦:1576年12月16日) ]
天文21年12月28日(ユリウス暦:1553年1月12日)任参議。 元亀元(1570)年5月出家。 正三位・権中納言。
※母名は、北畠系図(続群書類従)による。
※没日は、北畠系図作25日。
北畠 親顕[ 慶長8年9月28日(1603年11月1日) 〜 寛永7年8月3日(1630年9月9日) ]
寛永4年9月24日(1627年11月1日)任参議。 従三位・参議。
※公卿補任では、具教の養子となっている。
祖・滝川雄利の出自に関しては、諸説あって一定しない。系図纂要には木造俊茂の
子として記載されているが、
寛政重修諸家譜によれば、「下総守雄利、瀧川伊予守一益が家号をうけて
瀧川を称す。寛永系図、紀氏瀧川の末に収め、木造大納言俊康より連綿の系をしるし、
雄利は左中将具康が男といひ今の呈譜は、中将具政が二男、或三男。母は木造俊茂が
女なり・・・」とある。
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利雅(初利雄。長五郎。主税。信濃守。従五位下。
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母正利女。寛永16(1639)年生。
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寛文13年7月18日(1673年8月29日)卒。
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法名紹了。葬地同利錦)
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⇒
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女子(新庄右衛門直澄妻)
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女子(利元妻)
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女子
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利章(伊織。兄利元養子)
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具章〔具章孫〕
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頼利(采女。左衛門。土岐市右衛門頼久養子)
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義利(尉之助。兵部)
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女子
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女子(利貞妻)
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女子(鳥居左京亮忠政室)
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- 本サイトの公卿に関するデータは、
東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館。 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
系図纂要(名著出版)
を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。
知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
- 菩提寺・居所に関しては、
雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕と
公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
を基本としました。
家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
実地調査はおこなっておりません。
- 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。
- 家紋に関しては、
雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
- 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、
その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。
ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。
ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。
和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。
西暦への変換に関しては、和暦の各月の大小の値を
「日本暦日原典」内田正男/著に従って、算出したものです。
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父母名などを表記する場合、公卿に関しては、官位官職、卿・公の尊称は省略しました。
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本サイトの情報を利用したことによって生じた、いかなる損害に対しても管理人は、補償の責任がないものとさせていただきます。
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