天皇系図索引
系図は、本朝皇胤紹運録を基本とした。〔〕書きで出典が書かれていない事項は、本朝皇胤紹運録 に記載されたもの。
纂輯御系図、皇親系、詰所系図(系図綜覧所収執次詰所御系譜)、系図纂要との異同を校訂した。
紙幅の関係上、一部省略している事項もある。
第100代

後小松天皇

生没年 永和3/天授3年6月27日(ユリウス暦:1377年8月1日)〜永享5年10月20日(ユリウス暦:1433年12月1日)
※生年日は、群書類従所収本朝皇胤紹運録作26日。
異称 幹仁。法諱・素行智。
後円融天皇
三条公忠女厳子(通陽門院)。
配偶者
典侍 藤原資子 光範門院。日野西資国女。日野資教養女。従二位。准三宮。
至徳元/元中元(1384)年生〔尊卑分脈・皇親系〕
応永32年7月29日(ユリウス暦:1425年9月11日)院号〔尊卑分脈・本朝女后名字抄〕
永享5年10月7日(ユリウス暦:1433年11月18日)落飾〔尊卑分脈〕
在位 明徳3/元中9年4月11日(ユリウス暦:1392年5月3日)〜応永19年8月29日(ユリウス暦:1412年10月5日)
皇居 平安宮。
陵名 深草北陵。

後小松天皇系図

後小松天皇 ┳ 称光天皇
  ┣ 皇子(小川宮。応永11(1404)年生。応永32年2月16日(ユリウス暦:1425年3月6日)薨。
  ┃   号龍樹寺宮。纂輯御系図によれば母同称光帝)
  ┣ 理永女王(※纂輯御系図による。母同。皇親系によれば、
  ┃
応永15年10月8日(ユリウス暦:1408年10月27日)生。大聖寺。
  ┃
応永29(1422)年落飾為尼。為景愛寺主。
  ┃
文安4年12月29日(ユリウス暦:1448年2月4日)薨)
  ┣ 明仁親王(皇親系による。実木寺宮世平王第三子。
  ┃
応永26年10月19日(ユリウス暦:1419年11月6日)為養子。入妙法院。早世)
  ┣ 承道(皇親系による。実木寺宮世平王第二子。一品。准三后。仁和寺。応永15(1408)年生。
  ┃
応永26年10月26日(ユリウス暦:1419年11月13日)養子。
  ┃
享徳2年9月10日(ユリウス暦:1453年10月12日)薨。法金剛院御室。金剛定院)
  ┣ 貞成親王(皇親系による。猶子。実伏見宮栄仁親王第一子)
  ┗ 後花園天皇(実後崇光院皇子)
※一説に一休宗純は後小松天皇の落胤〔歴代皇后人物系譜総覧によれば母は花山院某の女〕。
第99代
第101代
 

  • 本サイトの公卿に関するデータは、
    東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
    公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
    尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館
    新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
    公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
    系図纂要(名著出版)
    を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。 知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
  • 菩提寺・居所に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕
    公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
    を基本としました。 家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
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  • 家紋に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
    日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
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