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中華への道!ダイアリー

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2005年7月






7月1日 金曜日


お決まりの燕京ビール

午後、最後の挨拶に学校にいってきた。
久々の学校は何も変わっていなくて、
裏口から校舎に入ったとたんに
「お〜っ!来たか!」
と、張生が声をかけてきた。

彼はもうすぐここを辞めて山東に帰る予定だったので、
もう俺とは会えないと思っていたらしい。

張生や、ねぶた君、備品管理の小姐と話が盛り上がり、
俺が来たばかりの話などを色々懐かしく話した。
10ヶ月前は周りは他人ばかり。
今ではここまで溶け込めたことに嬉しさを感じるし、
感謝もしている。

倉庫でおしゃべりをしていたのだが、
そこで思いがけない人物が登場してきた。
おかっぱ君こと王君である。

わざわざ俺の帰国にあわせて会いにきてくれたんだ〜。
と、一瞬思ったが、偶然だったみたい。
8ヶ月ぶりに会うおかっぱ君は少し太ったみたいだったが、
その他は何も変わっていなくて、
「マジ!?何でここにいるんだ?」
というような感じでしきりに驚いていた。

彼は学校を卒業した後、コックとして働いていたのだが、
その店が倒産してしまったらしく、
学校に相談に来たとのことだった。

そうこうしている内にヨウエンが新しい彼女と登場。
おそろいの靴を履いてイチャイチャしている2人を見て、
思わずからかいたくなったが、
まずは北京の若者の行動を観察することにした。

職員室に挨拶に行き、
孫老師や刀工の周老師、炒菜の記老師、事務の老師に感謝の気持ちを伝えてきた。
残念ながら、校長と広東コースの王老師は不在だったが、
温かく、時には厳しく見守ってくれた老師方には本当にお世話になった。
2008年のオリンピックの時の再会を約束してきたのだが、
その時には立派な厨師に絶対なっていよう。

その後、張さんと楊老師が仕事を終えて集まってきたので、
みんながいつもの食堂でお別れ会を開いてくれた。

張さん、楊老師、ヨウエン、彼女、おかっぱ君、そして俺の6人で乾杯。
ヨウエンは張さんに仕事のことで説教され、
おかっぱ君は楊老師に仕事の斡旋を頼み、
残るは俺と彼女だけ。
「しめしめ…。」と思ったわけではないが、
2人の馴初めをそれとなく聞いてみた。

二人はチャットで知り合ったらしく、
付き合い始めてから1ヶ月も経っていないとのこと。
まだ10代の割にはしっかりしていて、
下戸のヨウエンが酒を注がれると、
「代わりに私のコーラ飲んでね。」
と、気の利く女房役になっていた。

若い2人を見るのはすがすがしいと言うか楽しい。
俺と彼女が話をしていると、
ヨウエンは気が気でないらしくチラチラとこっちを伺いながら、
張さんの説教を受けていた。
何を隠そう、俺はヨウエンの数々の女性遍歴を知っているのだ。
プッ。そりゃ気になるわな。

こうしてみんなでワイワイやっていたら、
ねぶた君が仕事を抜け出してやってきた。
何かプレゼントを持ってきたらしく、
テーブルの上で開いて見せてくれた。

中身はなんと大きなデコレーションケーキ。
真ん中には「円夢在北京」の文字。
(直訳:北京での予知夢)
ケーキコースの授業で生徒が試作したものだけどと恐縮していたが、
気持ちが何よりも嬉しかった。

このメンバーで酒を飲むのも最後。
最高の出会いだったな〜と、
しっかりと手作りケーキの素朴な味を噛み締めていただいた。
ありがとう。

感激しながらケーキを食べていると、
張さんの目が潤んでいるのに気付いた。
相変わらず涙もろいな〜。
結局一番感激したのは張さんかもしれない。

帰りは自転車で張さんと一緒に帰ってきた。
そよ風が心地よかった。





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7月2日 土曜日

向かいの長屋のお母さんが経営している果物屋に行ってきた。
果物屋といっても、2坪ぐらいの狭い店に、
電話亭(屋内公衆電話)も兼ね備えたという何でも屋だ。

子供達も店の手伝いをしに店の前で遊んでいた。
相変わらず「おじさん!」と、元気に声をかけてくる。
子供達にもうすぐ田舎に帰ることを伝えると、
一瞬寂しそうな表情をしたが、
またすぐに帰って来るとでも思っているようでいつもどおりのやんちゃぶりだった。
この親子は俺が日本人だということをまだ知らない。

大きなメロンを姉ちゃんの方に選んでもらって買ってきた。
お母さんはお金は要らないと聞かなかったが、
姉ちゃんにしっかりと代金を渡してきた。

もう会うこともないだろうけど、
すくすく育てよ〜。

昼、メロンを持って、レストランに行って最後の挨拶をしてきた。
みんなとおしゃべりしていると紅梅と文全がいないことに気付いた。
光富がいうには数日前に辞めて行ったらしい。
紅梅は俺に何回も電話をかけたらしいのだけど、
俺の携帯は電波の入りがよくなくて、
諦めて去って行ったそうだ。
最後に会えなかったのは残念だが、
あの2人の事だからこの北京で何とか力強く生きていくことだろう。

レストランのみんなと、08年に会う約束をしてきたのだが、
その時にこのレストランにいる自信はみんな無い様子。
電話番号や実家の住所を交換して分かれてきた。

夜は、また学校のみんなと飲んできた。
1日は助手達が仕事で飲み会に来れなかったので、
2日続きのお別れ会である。

張さんと張生、ねぶた君、俺、
そして、職探しをしに来ていた卒業生も飛び入り参加して、
学校近くの屋台へ。

他の助手達は夜勤のために来ることが出来なかったが、
張生やねぶた君と最後に飲むことが出来て本当によかった。
もちろん張さんも。

飛び入りの卒業生も大歓迎だったのだが、
こいつはとんでもないお騒がせなやつだった。

何度もビールを乾杯。
10か月分の感謝の気持ちを込めて、何度もビールを飲み干した。
「前途ある未来に乾杯!」
「みんなありがとう!乾杯!」
「良い仕事が見つかるように乾杯!」
「早く結婚できるように乾杯!」(笑)
「2008年の再会に乾杯!」
などなど、ジョッキを何杯飲んだか分からないくらい乾杯した。

ワイワイと顔を真っ赤にしながらも乾杯をしていると、
道路をコオロギ売りのおじさんが通っていった。
自転車に小さな竹篭に入れたコオロギをたくさん積んでいる。
中国の夏の風物詩である。

張さんがそれを見て俺に2匹買ってくれた。
握りこぶしくらいの小さな竹篭に丸々太ったコオロギが一匹と、
茄子が一切れ。
中国人はこの季節にコオロギの音色を聞いて楽しむ。
ラストエンペラーと言う映画の中の溥儀も
少年時代にコオロギを大切に飼っていたっけ。

そのコオロギは突付いてもえさを与えても鳴きはしなかったが、
家にもって帰ってきた今、元気に鳴いている。

何回も乾杯して、張さんがダウン。
みんなもフラフラ状態だったと思う。
俺もあまりその時の記憶がないのだが、
なんやかんやで「さよなら、ありがとう」の挨拶をする暇もなく、
タクシーに乗り込んでいた。
となりには飛び入りの卒業生。

「俺は西釣魚台までだけど、家どこ?」
と聞くと、
「じゃあ、俺も西釣魚台まで。」
と、訳の分からない返事。
「西釣魚台に住んでるの?」
「いや、違うけど、お前が行くところに俺も行く。」
ますます訳が分からない。
「俺んちには泊まれないし、安い旅館も近くにないよ。」
と言ったのだが、
「俺のことは気にしないで。」
との一点張り。

お金を持っているような感じでもないし、
俺んちに来ても布団がないので正直困ってしまい、
「どこかでもう少し飲まないか?三里屯でどお?」
と言う言葉につい乗ってしまった。

でも、考えてみると、
三里屯はバーが立ち並ぶ北京の外国人御用達のおしゃれなスポットである。
そんなところで飲む金は持ち合わせていない。
もちろんやつもだ。

怪しい…。
三里屯までもう少しと言うところで場所を変える事にし、
やつが知っている安めの所に行き先を変更した。

ところがいくら走っても目的地には着かなく、
外は暗くて自分がどこにいるのかも分からないし、
やつ自身も分かってないようだった。
タクシーの運ちゃんに聞いても聞き覚えのない地名を言うだけ。
きっと北京の郊外に入っただろうなと感じた。

「いったいお前はどこに行きたいんだ!」
と聞くと、
「お前の行くところに俺も行く。」
と、訳の分からないことを繰り返すばかり。

結局口げんかになってしまい、
俺はタクシー代を払って途中で降りた。
金魚の糞みたいなやつほど嫌なやつはいない。

怒りが収まるまで外を歩くことにし、
家の方向と思われる方に1人歩いた。
一緒に飲んでいるときは結構楽しいやつで、
こんな訳の分からないやつとは思ってもいなかった。
おかげでこんな辺鄙なところで路頭に迷うことになったのだ。

15分ぐらい歩いただろうか、
「待ってくれ〜!」
と言う、やつの声が聞こえたかと思うと、
俺のところまで走ってきた。

正直ほっとした。かな?
見ず知らずの土地を夜更けに1人で歩くのは心細いし危険だ。
やつは芯はなくとも悪党ではない。

「来るな!」
と言ってもやつはついてくるので、
道端にあった屋台でビールを飲みながら話すことにした。

ビール瓶を渡すと、やつは疲れきった表情で話し始めた。
「俺だって北京に出てきたばかりで、土地勘がないんだよ。お前には分からないだろ?初めての街での暮らしがどんなだか。」
と、しきりに自分の不運を語りだした。

「俺にとっても北京は初めての街だよ!土地勘もないし、友人だって初めは全然いなかった。中国語が流暢に話せるだけお前の方がましだ!」
と、怒鳴ると、彼は今度は謝りだした。

「ごめん!騙すつもりだった。許してくれ!」
お涙ちょうだいの演技っぽかったので、
無理やりビールを飲ませてヘロヘロにさせた。

やつは、俺がつまみを注文しに席をはずした時に
「あいつ(俺)とは友達じゃない。」
と、隣の席の親子に漏らしていたので警戒して飲ましたのだ。
ほんとムカつく。
きっと、その親子は怒っている俺を不思議に思ったのだろう。
子供に張さんからもらったコオロギを1匹上げたら喜んでいた。

やつは学校を卒業した後に北京で仕事を始めたが失業してしまい、
住むところもないらしい。
ここ数日は野宿をしているとのことだった。

この後、実際に道端に新聞を敷き眠り込んだので、
叩き起こして一緒に泊まれるところを探した。
まだ若いのにホームレスの暮らしをするのは許せない。

それまでは来るなと言ってもついてきたやつだったが、
さすがに酔いが回って歩けなくなったのか、
「俺は道端で寝るからお前は1人で帰れ。」
などとぬかすようになった。

夜も遅く、人通りもない。
ましてやホテルのような泊まれるところなんて一軒もなかった。
どのくらい歩いたのか分からないが、
やっと一軒のタバコ屋の前で赤ん坊を抱っこしている女の人に出会い、
近くに招待所があることが分かった。

しかし、ついてないことに、
やつは身分証明書を持っていなかったのである。
どこまで間抜けなんだか。
俺はパスポートは持っていたが、
外国人は招待所に泊まることは出来ない。
1人だけでも身分証を持っていたら何とかなるのだが。

そんなこと言っててもどうにもならないので、
まずは招待所の門を開けてもらった。

「部屋ありますか?バスがなくなって家に帰れなくなったんです。」
俺はとりあえず芝居をすることにした。

「2人?部屋あるよ。身分証見せて。」
「俺は家に忘れてきたんだけど、彼は持ってます。」
やつは一瞬ぎょっとして驚いていたが、
「俺もないよ。」と、キョトンとしていた。

「何!?身分証明書がないって?何やってんだよ!身分証も持たないで出掛けるやつがいるか!野宿でもする気か!」
みたいな事を言って奴をガンガン攻撃したら、
招待所のおばさんはしょうがないと言った感じで部屋に案内してくれた。
なんとか作戦成功。

ぼろい地下室だったけど、
ベットの上で寝るのは最高!
午前2時過ぎにやっと横になることが出来た。
やつは今度は本気で謝っていたけど、
俺より先にいびきをかいて熟睡した様子。

給料は低くても厨師の仕事はたくさんあるわけで、
路上生活するなんて、まちがってるぞ!




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7月3日 日曜日


盛華からのプレゼント

朝早くチェックアウトをして、
泊めてくれたおばさんにお礼を言って招待所を後にした。
朝食を食って、すぐに別れた。

やつは屋台の肉まんをご馳走してくれた。
もう会うことはないだろうが、
会いたくもない。
ただ、悪党ではないことは確かだ。
いってみれば、八兵衛みたいなやつだろうか。
最後の最後に変なやつに当たったと思うしかない。

家に帰ってきて、まずは爆睡した。
明日の朝帰国すると言うのにまだ準備が整っていなく、焦るばかり。

盛華は俺にプレゼントとして、
時代劇のDVDセットとフィリップスのシェーバーをくれた。
俺がいつも剃刀を使っているのを見て、
シェーバーを使えば良いのにとずっと思っていたのらしい。
ありがとう。

俺は数日前にパナソニックのMP3をプレゼントした。
喜んでくれて、出勤の時にバスの中で音楽やラジオを聴いてるみたいだ。

盛華とはいろいろあったけど、
9ヶ月の共同生活は今日で終わりだ。
色々考えてみると、縁というものは不思議だ。
ひとり中国に来て、様々な人と会ったが、
その中で盛華は大して気の合う相手だったわけでもない。
言ってみれば、水と油が9ヶ月間一緒の瓶に入っていたようなものだ。
なのにギシギシしたものはなく、
返って一種の違和感が心地良いものに感じる。

適度な境界線があったから一緒に住んでいられたんだろうか。
持ちつ持たれつの寄りかかりの関係ではなかったことは確かだ。
金銭的にも最後まで「割り勘制」でこれたことも大きな理由である。
また、くつろいでもダレたことはない。

人間関係は友好を念頭に置くからギシギシいい出すのであって、
所詮、水は水、油は油。
混ざり合うことはない。
ドレッシングの瓶をひたすら振ったって、すぐに分離してしまう。
ただ、同じ瓶に入っていることを意識していれば、
割れたりすることもないんじゃないかと思う今日この頃、
盛華には感謝するのみである。

北京最後の夜は、盛華と北京ダックを食べに行った。
天地市場の近くにあるダックの老舗に行って、
これでもかと言うほどご馳走になってきた。
盛華は「最後だから」と、
食べきれないほどの料理を注文してくれたのだ。

一期一会だな。
つぎ会えるのはいつの日か。
その時が楽しみだ。

北京ダックの店の近くでは、オリンピックの施設が建設されている。
2008年にまた会おう。

そういえば、記老師を偶然店で見かけた。
プライベートではない様子だったので声はかけなかったが、
この広い北京で、最後の日の夜に会うことができたのも、
なんかの縁だな。

北京最後の夜なんだよな…。
結局今日は二日酔いで帰国の準備も完璧に出来ないままで、
あっという間に一日が過ぎていった。





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7月4日 月曜日

日本到着。

午後3時。
日本時間の2時に成田についた。
東京駅行きのリムジンバスの中。

快晴の北京からいきなり雨の日本にたどり着いた。
正直中国が恋しい。
ほんの数時間前まで中国の友と一緒にいたのに…。
あ〜、本当に恋しい。

戻りて〜!なんていってられない。
これからがスタートなのだ。
でもなんか北京に着いた10ヶ月前よりも寂しい。
何なんだ…。
いや、あの時よりはましだ。
幾分まし。

ゼロから始まった北京での生活は幕を閉じた。
心からありがとう。
かまってくれたみんな、ありがとう。
涙が出てくる。

日本の社会に戻ってきた。
空港からは5分おきにリムジンが入ってきては出発していく。
時間の狂いはなく、みんなテキパキ、礼儀正しい。
全く違う世界だ。
違和感を感じる。

ダメだ〜。
涙が出てくる。
今までの楽しかったこと、つらかったことが一気によみがえってきた。

つらかったことは国家間の問題が個人の関係にまで及びそうになったとき。
でもいつも誰かがそばにいてくれた。
楽しかったことは気の合う友人達と自由におしゃべりをしたこと。
いつも帰る家があって、いつも盛華がいたし、
学校にいけば友がいた。

ゼロから始まり100%以上に満たされて帰って来た感じ。
鼻水が止まらない。
この強烈な感謝の気持ち。
日本に着いてから初めて感じた。
北京にいるときなんで感じなかったんだろう。



夜11時。
ホテルにて。
夕方東京駅についてから、明日の夜行バスの切符を買った。
中国の物価が完全に染み付いた今、
新幹線の切符なんて買ってられない。
北京から香港までの寝台が450元だったのに、
盛岡までの新幹線は1000元(13000円)だ。
高速バスでも600元してしまう。
ホテル代も馬鹿にならないけど、
中華街によってから帰りたい。

なんか逆カルチャーショックの連続だ。
周りの人が日本語を話しているのが不思議で、
思わず聞き耳を立ててしまう。

あと、空港でリムジンのチケットを買った時、
驚愕。
諭吉を出したら一葉さんが返って来た。
しかも、漱石もちょっと違う。
新札が出たのは知っていたので偽札とは思わなかったが、
自分がいつの間にか浦島太郎になっていたことに驚いた。

テレビを見ても知らない人ばかり。
若手芸人は全く分からない。
「ヒロシです」
って、みんなやってるけど、
いったいヒロシって何なんだろう。
ゲッツはもう消えたのかな。

今日の朝まで北京にいたことが夢のようだ。

今日の朝は5時に起き、
盛華も早起きをして荷物運びを手伝ってくれた。
ヨウエンがお父さんと車で空港に送ってくれることになっていて、
6時に公主墳に待ち合わせをしたのだが、10分遅刻。

あの時は帰国すると言う感じよりも、
ちょっと旅行にでも行ってくると言う気持ちだったので、
盛華とは「またくるよ!」と、あっさりと別れてしまった。

ヨウエンと幼なじみ、お父さんは5時半から待っていたようで、
急いで出発した。
途中、遠回りをして北京の郊外を案内してくれ、
「つぎ北京に来た時はこの田舎も都会になってるぞ〜。」
と、お父さんは誇らしげに語っていた。
ヨウエンのお父さんは不動産屋である。

ヨウエンと幼なじみの太っちょ君はドライブを満喫していた様子。
空港が見えてくると、
「ここで働くのも良いな〜」
なんて2人で話していた。

空港についてからは車を止めておく場所もないので、
別れを惜しむ暇もなかったが、
ヨウエンは「これは俺がいつも身につけているものだ」と数珠をくれた。

そこまでされても俺は「別れ」というものを感じることが出来なかった。
やっぱりちょっと出かけてくると言うような感じ。
「ありがとう!また会おう!」
と言って、3人と別れた。

飛行機を待つまでの間、
張生や管さん、張さんから電話が来た。
本当にありがたい話である。
ああして最後まで気遣ってもらって。
あの時はこんなにみんなが恋しくなるとは思ってもいなかったな〜。

盛華や友人達にメールを送って搭乗。
飛行機の中では湿った気持ちになるよりも、
久々に見る日本を楽しみにする気持ちのほうが強くて、ルンルン気分だった。
そして日本に降り立ってから、
もう当分会えないことを身をもって感じたわけで…。

みんなどうしているだろうか。
あの長屋に戻りて〜な〜。

同室の盛華、相談役の管さん、涙もろい張さん、いろいろあったヨウエン、しっかり者の張生、感情的な大姐、ちょっとずるい楊老師、明るい助手たち、まじめなねぶた君、かわいいマーリー、素朴なドカベン君に秀梅、お世話になった周老師、記老師、王老師、甘老師、偏見の塊の管理コースの老師、肝っ玉の趙さん、臆病者の韓君、カンフーのハン君、おかっぱの王君、キザな金髪兄ちゃん、老李、会東…。

世話になった人たちを挙げていくと本当にきりがない。
ありがとう。

あ〜、この違和感だけでも何とかならないかな。
果たして日本でやっていけるんだろうか。




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7月5日 火曜日

ホテルをチェックアウトした後、横浜中華街へ。
中華街は初めてではないが、
店員が中国語を話しているのを聞いて懐かしくなった。

ちょうどランチの時間だったので永華楼というレストランで昼食。
なぜそこで食べたかというと、
求人の張り紙が店の前に貼ってあったからだ。
時給850円。
中華街で働きたい。
料理は香港で食べた懐かしい味がした。

その後、関帝廟にお参り。
ここでなぜか涙がボロボロと。
中国で無事過ごせたことを感謝して線香を上げた。
また必ず中華街に来るぞ〜。

明日の朝は岩手である。
まずは家族に俺の中華の腕を披露するとしますか。
味はともかく、心を込めて作るのには自信がある。
…まだまだ修行が足りないな。

これからまずすることは修行。
そして自分の店を持つ!!













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