絶家・社家〔秦氏〕

【はた】

秦氏系図

始皇帝 ━ 故亥皇帝 ━ 孝武皇帝 ━ 功満君 ━ 融通王
真徳君 ┳ 普洞王 ━ 秦酒公※1 ━ 意美秦公 ━ 忍秦公
  ┣ 雲師王
  ┗ 武良王
丹照秦公 ━ 河秦公 ━ 国勝秦公 ┳ 川勝(河勝)
  ┗ 和賀
※系図纂要を基本とした。他、寛政重修諸家譜・世界帝王系図集などを参考にした。
※1 或説、融通王の子浦東君の子。
公卿補任に見られる松尾社神主家・伏見稲荷社神主家が秦姓となっている。 松尾大社・伏見稲荷大社のウェブサイトも、この秦氏の後裔としているが、 続群書類従所収の松尾社家系図は天児屋根命の裔となっている。 この他、戦国大名の長宗我部氏や楽家の東儀家が秦氏川勝(河勝)の子孫とされている。

松尾社神主家

松尾大社御由緒 http://www.matsunoo.or.jp/pr1.yuisho/pr1.yuisho.html
東家
秦 相看[ 正保4(1647)年 〜 正徳5年12月29日(1716年1月23日) ]
相行男。
宝永3年6月17日(1706年7月26日)叙従三位。
従三位・非参議。松尾社神主。
秦 相道[ 延宝4(1676)年 〜 元文4年6月28日(1739年8月2日) ]
相純男。
享保20年12月24日(1736年2月5日)叙従三位。
従三位・非参議。松尾社神主。
秦 相祟[ 享保3(1718)年 〜 天明元年5月17日(1781年6月8日) ]
相道男。
明和7年正月29日(1770年2月24日)叙従三位。
従三位・非参議。松尾社前神主。
秦 相養[ 延享4(1747)年 〜 寛政5年9月10日(1793年10月14日) ]
相祟男。
天明4年12月19日(1785年1月29日)叙従三位。
正三位・非参議。松尾社前神主。
秦 相村[ 天明元(1781)年 〜 文政12年10月29日(1829年11月25日) ]
相養男。
文化11年12月19日(1815年1月28日)叙従三位。
正三位・非参議。松尾社神主。
秦 相命[ 寛政12(1800)年 〜 ? ]
相村男。
天保元年12月19日(1831年2月1日)叙従三位。
明治元年時、正三位・非参議。松尾社神主。
秦 相愛[ 天保9(1838)年 〜 ? ]
相命男。
慶応2年正月15日(1866年3月1日)叙従三位。
明治元年時、従三位・非参議。松尾社正祝。
南家
秦 相忠[ 寛文元(1661)年 〜 享保20年3月28日(1735年4月20日) ]
相章男。
享保5年12月28日(1721年1月25日)叙従三位。
従三位〔皇親系附録によれば、正三位〕・非参議。松尾社神主。
※皇親系附録によれば、娘は霊元天皇後宮〔称町局又小少将。享保13年正月2日(1728年2月11日)卒〕。
秦 相栄[ 享保14(1729)年 〜 天明8年3月23日(1788年4月28日) ]
相広男。
明和4年8月8日(1767年8月31日)叙従三位。
正三位・非参議。松尾社神主。
秦 栄忠[ 宝暦3(1753)年 〜 文化11年10月29日(1814年12月10日) ]
相栄男。
天明5年3月11日(1785年4月19日)叙従三位。
正三位・非参議。松尾社神主。
秦 栄親[ 天明8(1788)年 〜 天保8年2月9日(1837年3月15日) ]
栄忠男。
文化13年2月24日(1816年3月22日)叙従三位。
正三位・非参議。松尾社神主。
※壬生〔小槻氏〕家譜・現代華族譜要等によれば、娘の篤子が
壬生輔世妻。明麗母。文政8年7月生。明治25年1月逝去。
秦 栄祐[ 文政3(1820)年 〜 ? ]
嘉永3年10月30日(1850年12月3日)叙従三位。
明治元年時、正三位・非参議。松尾社正禰宜。

伏見稲荷社神主家

伏見稲荷大社稲荷信仰 http://inari.jp/b_shinko/
(西大西家略系図が掲載されている)
秦 親憲[ 宝暦9(1759)年 〜 文政4年12月5日(1821年12月28日) ]
文化11年10月26日(1814年12月7日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷中社神主。

西大西家

秦 親友[ 寛文9(1669)年 〜 寛延4年閏6月29日(1751年8月20日) ]
元文3年2月17日(1738年4月5日)叙従三位。
正三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 親盛[ 元禄16(1703)年 〜 安永7年7月11日(1778年8月3日) ]
明和4年5月19日(1767年6月15日)叙従三位。
正三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 親臣[ 享保20(1735)年 〜 文化3年10月29日(1806年12月8日) ]
天明6年2月17日(1786年3月16日)叙従三位。
正三位・非参議・稲荷下社神主。
東大西家
秦 親業[ 寛延2(1749)年 〜 文化7年6月5日(1810年7月6日) ]
文化4年12月19日(1808年1月16日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 親典[ 寛政元(1789)年 〜 ? ]
安政3年2月5日(1856年3月11日)叙従三位。
明治元年時、従三位・非参議・稲荷中社神主〔80歳〕。
安田家
秦 親安[ 元禄4(1691)年 〜 宝暦11年9月30日(1761年10月27日) ]
宝暦9年12月24日(1760年2月10日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
松本家
秦 為勝[ 享保7(1722)年 〜 天明6年6月4日(1786年6月29日) ]
天明2年3月11日(1782年4月23日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 為房[ 宝暦6(1756)年 〜 文政10年4月17日(1827年5月12日) ]
文化8年12月21日(1812年2月3日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 為縞[ 天明6(1786)年 〜 ? ]
天保6年12月18日(1836年2月4日)叙従三位。
明治元年時、正三位・非参議・稲荷下社神主。
南松本家
秦 為胤[ 貞享4(1687)年 〜 宝暦5年3月12日(1755年4月23日) ]
宝暦2年6月10日(1752年7月20日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 為雄[ 正徳4(1714)年 〜 安永9年7月23日(1780年8月23日) ]
安永7年後7月4日(1778年8月25日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
秦 為弼[ 明和6(1769)年 〜 文政11年12月22日(1829年1月27日) ]
文政11年12月9日(1829年1月14日)叙従三位。
従三位・非参議・稲荷下社神主。
中津瀬家
秦 忠熈[ 寛延3(1750)年 〜 文化8年7月11日(1811年8月29日) ]
文化8年後2月4日(1811年3月27日)叙従三位。
従三位・非参議・稲荷下社神主。
秦 忠絢[ 安永6(1777)年 〜 天保9年後4月16日(1838年6月8日) ]
文政12年3月4日(1829年4月7日)叙従三位。
従三位・非参議・稲荷下社神主。
毛利家
秦 公広[ 延宝元(1673)年 〜 宝暦2年4月3日(1752年5月16日) ]
宝暦元年11月1日(1751年12月18日)叙従三位。
従三位・非参議。稲荷下社神主。
※従三位叙位日は、或10日。
秦 公林[ 元文元(1736)年 〜 寛政元年10月9日(1789年11月25日) ]
天明7年2月27日(1787年4月15日)叙従三位。
従三位・非参議・稲荷中社神主。

長宗我部

本姓は一説に蘇我氏の部民ともいわれる〔戦国人名事典〕。 系図纂要は、初代能俊を川勝の子として記述しているが、土佐物語によれば、能俊は 川勝二十五世孫で、土佐国長岡郡にて三千貫を領し、宗我部村岡豊山に城を築き、氏を宗我部と 改めたが、同国香美郡にも 宗我部という所があったので、長岡郡の方を長宗我部、香美郡の方を香宗我部と称したという。
家紋:酢漿草〔長曽我部譜〕
戦国武将蒔絵シリーズ 家紋蒔絵シール 長宗我部元親 七つ片喰(金) BUSHOU-37 J77-018412
参考文献
土佐物語・土佐国諸氏系図・系図纂要・長曽我部譜〔史籍集覧第15冊〕・戦国人名事典

長宗我部系図

能俊 ┳ 俊宗 ┳ 忠俊 ━ 重氏 ━ 氏幸 ━ 満幸
  ┃   ┗ 某〔久礼田〕
  ┗ 宗貞〔江村〕(※土佐物語による。三男とある)
┳ 兼光 ━ 重俊 ━ 重高 ━ 重宗 ━ 信能 ━ 兼能
  ┣ 某〔広井〕(※系図纂要による)
  ┣ 某〔中島〕(※系図纂要による)
  ┣ 某〔野田〕(※系図纂要による)
  ┣ 某〔大黒〕(※系図纂要による)
  ┣ 某〔上村〕(※系図纂要による)
  ┗ 某〔中野〕(※系図纂要による)
┳ 兼綱 ┳ 能重 ┳ 元親 ┳ 文兼 ┳ 元門
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 雄親(元門嗣)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 家紹 ━ 正薦(蓮如寺)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 豊定 ━ 行永(金剛寺院主)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 貞在(※土佐国諸氏系図・戦国人名事典作
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   貞左)〔西和田〕
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 恒安〔蒲原〕
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┣ 円照(金剛界寺)
  ┃   ┃   ┃   ┃   ┗ 堯固〔益田〕
  ┃   ┃   ┃   ┣ 宥性(金剛界寺。※土佐国諸氏系図作宥惟)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 益光 ━ 壁峰
  ┃   ┃   ┃   ┣ 親正 ━ 親世
  ┃   ┃   ┃   ┣ 兼相 ━ 親兼
  ┃   ┃   ┃   ┣ 仲堂(蓮如寺。※土佐国諸氏系図作仲常)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 安秀 ━ 親秀
  ┃   ┃   ┃   ┗ 小原
  ┃   ┃   ┣ 楳翁 ┳ 徳仲
  ┃   ┃   ┃   ┣ 孝屋
  ┃   ┃   ┃   ┣ 之直
  ┃   ┃   ┃   ┗ 序直
  ┃   ┃   ┣ 定憲(金剛界寺)
  ┃   ┃   ┗ 直菴(※土佐国諸氏系図作道菴。蓮如寺)
  ┃   ┣ 寂照 ━ 一伝 ━ ━ 兼吉〔二階〕
  ┃   ┣ 常忠 ┳ 方菴 ⇒B
  ┃   ┃   ┗ 兼吉
  ┃   ┗ 明眼(金剛界寺)
  ┣ 某〔久富・完崎〕(※系図纂要による。※土佐国諸氏系図作獅子崎)
  ┣ 某〔光富・寺田〕(※系図纂要による)
  ┗ 某〔馬場〕(※系図纂要による)
雄親 ━ 兼序 ┳ 国親 ┳ 女子(本山式部妻〔系図纂要作朝倉城主吉良式部少輔妻。
  ┃   ┃   戦国人名事典によれば本山茂辰室〕)
  ┃   ┣ 元親 ┳ 女子(一条内政室。母斉藤氏〔系図纂要。長曽我部譜作斎藤利三妹〕)
  ┃   ┃   ┣ 信親(弥三郎。千雄丸〔戦国人名事典〕。永禄8(1565)年生。
  ┃   ┃   ┃
母斉藤利三妹〔系図纂要〕。
  ┃   ┃   ┃
天正14年12月12日(1587年1月20日)卒〔系図纂要作10月12日〕。
  ┃   ┃   ┃
天甫常舜大居士〔戦国人名事典作天甫寺常舜禅定門〕。
  ┃   ┃   ┃
室石谷兵部女)
  ┃   ┃   ┣ 女子(吉良左京進内〔系図纂要作親実〕室。
  ┃   ┃   ┃
母斉藤氏〔系図纂要〕)
  ┃   ┃   ┣ 香川五郎次郎義親(※系図纂要作親政。戦国人名事典作
  ┃   ┃   ┃   親和。母斉藤利三妹〔系図纂要〕。
  ┃   ┃   ┃   天正15(1587)年病死〔戦国人名事典〕)
  ┃   ┃   ┣ 津野孫次郎頼親(※戦国人名事典・系図纂要作親忠。
  ┃   ┃   ┃   津野勝興養子〔系図纂要〕。母斉藤利三妹〔系図纂要〕。
  ┃   ┃   ┃   元亀3(1572)年生〔戦国人名事典〕。
  ┃   ┃   ┃   慶長5(1600)年7月切腹。村孝山寺〔系図纂要〕)
  ┃   ┃   ┣ 女子(上加江城主佐竹蔵人内室。母斉藤氏〔系図纂要〕)
  ┃   ┃   ┣ 盛親 ┳ 盛恒(※系図纂要による。右衛門太郎。
  ┃   ┃   ┃   ┃   慶長20年5月7日(1615年6月3日)討死)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 盛高(※系図纂要による。右衛門二郎。
  ┃   ┃   ┃   ┃   同父兄死)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 盛信(※系図纂要による。右衛門三郎。
  ┃   ┃   ┃   ┃   挙兵為山内一豊所殺)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 盛定(※系図纂要による。右衛門四郎)
  ┃   ┃   ┃   ┣ (※系図纂要による。右衛門五郎。
  ┃   ┃   ┃   ┃   元和元(1615)年代国松丸討死)
  ┃   ┃   ┃   ┣ 盛澄(※系図纂要による)
  ┃   ┃   ┃   ┗ 丸橋忠弥(慶安4(1651)年誅)
  ┃   ┃   ┣ 女子(吉松氏娘千〔系図纂要作吉松十右衛門妻〕。
  ┃   ┃   ┃
母斉藤氏〔系図纂要〕。
  ┃   ┃   ┃
号右近。住肥後。大坂時於京自害)
  ┃   ┃   ┣ 右京大夫(母小少将〔系図纂要〕。加藤肥後守〔清正〕へ
  ┃   ┃   ┃
御預。後、於伏見切腹)
  ┃   ┃   ┣ 親興(掃部助。※土佐国諸氏系図によるが、
  ┃   ┃   ┃
国康男比江山親興か?)
  ┃   ┃   ┗ 女子(※系図纂要による。母小少将。小宰相)
  ┃   ┣ 親貞 ┳ 親実(幼名新十郎。播磨守。左京進・蓮池城主〔系図纂要〕
  ┃   ┃   ┃
天正14(1586)年戸次川戦死〔系図纂要作
  ┃   ┃   ┃
天正16年10月4日(1588年11月22日)〕。室長宗我部元親女)
  ┃   ┃   ┗ 吉良(播磨守。戸次川討死〔系図纂要作天正14(1586)年〕)
  ┃   ┣ 親康(※戦国人名事典・系図纂要作親泰。香宗我部〔
  ┃   ┃   戦国人名事典作親秀・系図纂要作景好〕養子。戦国人名事典に
  ┃   ┃   よれば、天文12(1543)年生。文禄2(1593)年12月病死)
  ┃   ┣ 嶋弥九郎(系図纂要によれば親房。永正11(1514)年〔
  ┃   ┃   系図纂要作永禄11(1568)年〕3月討死於阿波海部)
  ┃   ┣ 女子(※系図纂要による。池四郎左衛門妻)
  ┃   ┣ 女子(波川玄蕃室〔戦国人名事典によれば波川清宗室〕)
  ┃   ┗ 女子(※系図纂要による。津野)
  ┣ 国康 ┳ 親武(戸波(へわ)姓)
  ┃   ┗ 親興(※戦国人名事典による。比江山姓。掃部助。
  ┃    
天正16(1588)年討死)
  ┣ 女子(※系図纂要による。山田)
  ┣ 女子(※系図纂要による。豊永)
  ┣ 女子(※系図纂要による。蚊井田)
  ┗ 女子(※系図纂要による。吉田〔戦国人名事典によれば吉田孝頼室〕)
このページの先頭に戻る
※最終更新日 2015.10.11

公卿類別譜〜公家の歴史〜について

  • 本サイトの公卿に関するデータは、
    東京大学史料編纂所公開用データベースに公開されている家譜、
    公卿補任(新訂増補国史大系53-57吉川弘文館。国史大系第9-11経済雑誌社)、
    尊卑分脈(新訂増補国史大系58-60下吉川弘文館
    新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集1-12吉川弘文館)、
    公卿諸家系図(土橋定代。続群書類従完成会。※知譜拙記)、
    系図纂要(名著出版)
    を基本として、その他諸史料で補完して作成しました。 知譜拙記と系図纂要からの出典には、その旨を注記してあります。
  • 菩提寺・居所に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕
    公卿諸家系図 土橋定代 (続群書類従完成会)のデータ〔※この2冊は同内容〕
    を基本としました。 家譜その他の系図史料等の葬地との異同は併記してありますが、
    実地調査はおこなっておりません。
  • 家業に関しては、諸家々業記、有職袖中鈔を基本とし、その他諸本で補完しました。
  • 家紋に関しては、
    雲上明覧大全〔慶応4(1868)年版〕を基本として、
    日本家紋総鑑 千鹿野茂(角川文庫)他、上述の事典などで補完・比較検討しました。
  • 年数の表記に関しては、ユリウス暦1582年10月4日までをユリウス暦に換算し、
    その翌日からをグレゴリオ暦に換算してあります。
    ユリウス暦の場合は、西暦の頭にユリウス暦であることを表記してあります。 ユリウス暦の表記がないものは、グレゴリオ暦であることを示します。
    和暦の改元の表記に関しては、改元した年の改元日から新元号の元年としました。
    西暦への変換に関しては、和暦の各月の大小の値を 「日本暦日原典」内田正男/著に従って、算出したものです。
  • 父母名などを表記する場合、公卿に関しては、官位官職、卿・公の尊称は省略しました。
  • 本サイトの情報を利用したことによって生じた、いかなる損害に対しても管理人は、補償の責任がないものとさせていただきます。