サンモリッツの町の上から出ている、ピッツ・ナイル Piz Nair 方面行きのケーブルカーを乗り継ぎ、コルヴィリア Corviglia で下車する。ここでピッツ・ナイルの展望台に行くためにロープウェイに乗り換える人たちと別れ、標識でスヴレッタ峠 Fuorcula Suvretta (またはPass Suvretta)方向を確認したら、早速歩き出そう。
歩き始めは標高差200mほどのじわじわ効く登りだが、今日1日の行程で登りらしい登りはここだけなので、気楽に行こう。左手の広大なアルプのお花畑と、コルヴァッチュの向こうにきらめくベルニナ山塊の氷河は、人々が想像するスイス・アルプスの風景そのままだ。途中何箇所か分岐点があらわれるが、常に"Fuorcula Suvretta"を目的に歩けばよい。
30分足らずで左手に巨大な風力発電の風車が見えて来る。人工建造物ながら周囲の風景になかなか美しく映え……と思って感心していたら、若手の空間デザイナーに環境と調和した意匠を依頼したのそうだ。いかにもデザイン大国のスイスらしい(普通の日本人にはあまり知られていないのだが、特にプロダクト/建築デザインのジャンルではスイスは突出している)。
風車の近くでピッツ・ナイル山頂への道が分岐して別れて行くと、ハイカーの姿も半分以下になり、あたりはすっきりと静かになる。このあたりが本日の行程の最高地点で、ここから先、道は徐々に下りはじめる。風化が進んだガレ場と草付きを交互に繰り返しながらのんびり進んで行けば、目の前のピッツ・ユリア Piz Julier 3380mがどんどん大きく迫ってくる。名前から容易に想像できると思うが、この峰の裏側には有名なユリア峠が通っている。
途中沢を横切ったりしながら進んで行くと、これまで時折眼下に見えていたエンガディンの谷から次第に離れ、かわりにその支谷、スヴレッタ川の谷の底が近づいてくる。道は少しずつ標高を下げているのにもかかわらず、周囲の風景はむしろさっきよりも高山めいて寒々しく、クッション植物が増えるなど、植生にもかなり変化が見られるようになってくる。これはおそらく冬期の積雪量や日照の関係だろう、
やがて道はピッツ・ナイル山頂からの道と合流し、眼下の美しい湖のほとりへ下ると、そこがスヴレッタ峠(2615m)だ。目の前にはピッツ・ユリアが堂々とした姿でそびえ、実際の標高以上に高山気分満点。このコースはここから先が長丁場になるので、このあたりでしばらく休憩でもしていくと良いだろう。なお、あまり長距離はちょっと……という人は、ここから先、標識でシグナルバーン Signalbahn と書いてある方面に向けて歩けば、2時間足らずでゴンドラリフト「シグナルバーン」の乗り場に到着、サン・モリッツ=バートの町へ下りられる。そちらのコースもまた、素晴らしい展望で知られる人気のトレッキングコースだ。
さて、私たちはベーヴェル(ドイツ語発音だとベフェーア)Bever 方面に向けて出発しよう。標識でシュピナス spinas と示している方向へ向かう。ガレに覆われた道は、スヴレッタ峠の湖沼群を源流とする美しい川に沿って、広大なU字谷を緩やかに下りはじめる。
ここから先しばらく、道は右岸、左岸 ※注 と何度も川を渡りながら進んで行くのだが、これが非常に楽しい反面、水量の多いときにはなかなかのクセモノになる。はじめは水流も少なく、水の中に配置された石を踏んで行けば苦もなく渡河できるのだが、下っていくにつれて次第に水流が増し、どんどん困難度が上がっていく。その時のコンディションにかなり左右されるとも思うが、筆者が歩いたときは、赤ペンキで渡河点が示されていても、現実にそこで渡るのが難しいような箇所もあり、最後にはとにかく浅瀬を探そうと、ルート上で偶然知り合った人たち同士、右往左往の大騒ぎになった。お互いに手を引っ張ったり、数人で大石を持ち上げて投入したり、中には諦めて靴を脱いで「渡渉」をはじめてしまう人もいたりと(これは危険なのでやめた方がよい)、なかなか面白い経験ではあったが……。川の両岸を行ったり来たりするなど、一見無駄なことのように思われるかもしれないが、両側に迫る岩壁からの落石の危険を避けるためなので、必ず定められたルートに従い、渡河して進むようにしたい。
スヴレッタ峠から1時間ほど、最後に川の右岸に渡ると、川は次第に深い谷を穿ちながら登山道から離れていく。ここまで来ると、これから合流するベーヴェル谷がはるか下に見おろせるようになり、道はこれまでの緩やかな下り坂から、谷底に向けて急角度で一気に下りはじめる。周囲の風景には急に緑が増え、岩ばかり見ていた目にはホッとするような色合いだ。先程まで沿ったり渡ったりして歩いていた川は、このあたりでは何段もの滝となって流れ下り、これもまた目に美しい。
下りきったところで、谷底のアルプの一軒家、ツェンバ−ス・ダ・スヴレッタ Zembers da Suvretta (別名アルプ・スヴレッタ・ダ・サメーダン)に到着。ここから先は、下から来たハイカーたちに混じっての全く気楽なハイキングというわけで、とりあえずはお疲れ様という気分だ。
広大な草原とお花畑に囲まれたこのツェンバ−ス・ダ・スヴレッタの小屋はまったく素晴らしいロケーションで、カフェとしてでも経営していれば良いのだが、残念ながらここのご主人には商売っ気は全くないようで、がっかりして帰って行くハイカーも結構いる。だが、スイスの農家の常で、もしも人がいるようだったらひと声かけてみれば、牛乳くらいは売ってもらえるかもしれない。こういう所で放牧されている家畜は、周囲に自生するハーブの一種、タイム(ジャコウソウ)が混ざった牧草を食べており、日本では絶対に味わえないような、素晴らしい香りの乳を出す。
さて、小屋の少し先にある標識で Spinas の文字を確認し、川の下流に向かって歩き出そう。ここから先は放牧用の車両が入るためのよく整備された道になり、シュピナス方面からここまで来て再び戻って行くハイカーたちの姿がかなり目立つようになる。
これから歩くベーヴェル谷は「花の谷」。水量たっぷりのベーヴェル川の左岸に渡ると(ここはもちろん立派な橋がかかっている)、これまではほとんど見られなかった針葉樹の木立がぽつぽつと散見されるようになる。足下のみずみずしい草と、カラマツと思われる針葉樹のやわらかい緑、そして氷河から来る水特有の乳青色をした川が轟音をたてて流れる光景は、これまでの岩の世界からやって来た目にはまた新鮮に映る。道は時折、車両の通る道と歩行者用の道に枝別れする。歩行者用の道はたいてい川の方へ下りて行くようになっており、そちらの方が圧倒的に景色がよい。
歩いて行くうちに木立は次第に深い森にかわっていく。そうすると間もなく左手にアルブラ峠に向かう道が分岐する。このアルブラ峠への道もまた、割合苦もなく登れ、しかも眺めの良い素晴らしいトレッキングルートだそうだ。さて、ここまで来れば事実上の終点、アルプ・シュピナスまであとわずか。シュピナスにはいつもハイカーで賑わうレストランがあるので、飲み物や軽食を期待して一気に歩き下ろう。
シュピナスにはレーティシュ鉄道の駅もある。ここに停車する列車は1日数本しかないが、もしも時間が合うようだったら、それを利用しても良いだろう。なお、この駅では客の乗降の有無を押しボタンで列車に知らせるようになっている。時刻表では停車することになっている列車も、事前にこの押しボタンで乗車の意志を知らせなければ通過して行ってしまうので注意しよう。
(下の写真、時刻表パネルの左にある灰色のボックスがそれ。もちろん列車内にも降車客用のボタンがある。プント・ムラーユ駅などもこのタイプ)
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