サンモリッツ St.Moritz、あるいはポントレジナ
Pontresina からレーティシュ鉄道(Rhb)ベルニナ線の各駅停車ティラーノ Tirano 行きに乗り、モルテラッチュ
Morteratsch 下車。
その昔、100年ほど前までは、モルテラッチュ氷河の末端は駅のすぐ目前まで来ており、電車を降りればすぐに氷河が見物できるということで、ここは名所になっていた。その後地球規模の気候温暖化の影響で、あれよあれよと言う間に氷河は後退、今では氷河末端は駅から約2kmも離れてしまい、30分ほど歩かなければいけない。
駅からはモルテラッチュの谷に向かってハイキングコースが伸びている。歩き出してすぐ、道は二手に枝分かれするが、今回は左の道を行く。ちなみに右に向かう道は、正面の山に取りついて一旦標高2000m付近まで登った後、やはりモルテラッチュ氷河に向かって歩き、標高2495mにあるSAC(イタリア語圏ではCAS。スイス山岳会)のヒュッテに到達するようになっている。筆者はそちらの道を歩いていないが、地図で見ると途中からはなかなか見晴しのよい道に見える。おまけに、SACのヒュッテも良い場所にあるようだ。
話を左の道に戻そう。なだらかな上り坂になっている道の周囲には、大小様々な大きさの岩が転がっている。これらの岩は、その昔、どこかから転がり落ちてきた岩が氷河の上に乗り、そのまま氷河と一緒にゆっくり移動して、末端で地面に落とされたものだ。駅の近くは氷河が消えてからかなりの年数が経過しているので、岩の間では針葉樹がかなり成長してきている。
正面に見える氷河に向かい、緩やかな上り勾配の道をどんどん歩いていくと、何百メートルかごとに「1940年」「1950年」……と、10年刻みで年代の書かれた小さなプレートが登場する。これは、その年には氷河の末端はここだったという意味の標識だ。駅に近いものは古く、谷奥へ向かうほど表示の年数は現在に近づいてくる。
また、谷の左右の岩壁のかなり高いところに、ガレ場が延々と横に伸びているのが見受けられる。下からだと単なるガレの斜面に見えるが、実はこれはラテラル・モレーン(注参照)だ。あの位置にラテラル・モレーンがあるということは、昔はそこに氷河の表面があったということだが、調べてみたら驚いたことに、それがつい100年ほど前のことだったのである。当時のモルテラッチュ氷河は、今より2km長かっただけでなく、200mも厚かった!
氷河に近づくにつれ、道の周囲の針葉樹の背丈は低くなり、やがて背の低い広葉樹の潅木だけ(これらは針葉樹よりも先に荒れ地に進出する)になってしまう。小さな川を何回か渡っていよいよ氷河の目の前にやってくると、それも消えて岩と氷だけの世界が始まる。
ついに氷河の末端到着。氷床の下からはあちこちで水が流れ出し、氷河に沿って下ってくる冷たい空気で、周囲の気温も急に下がってきたようだ。では、早速近づいて観察してみよう。氷河の末端ではたまに落石に遭うことがあるので、上方からの物音には十分注意を払いたい。また、向かって左側の部分はいつも氷が大きく崩壊し、スノーブリッジやトンネル状になっているが、その下には絶対に入らないこと。
氷河の氷というと非常にロマンチックな響きがある。実際、少し離れた場所から見る氷河は、クレバスや崩壊部の内側から物凄い青い光を放ち、素晴らしく美しい。ところが、これを間近でしげしげ見ると、氷が岩を摩擦して削り取った物質が混じり、結構キタナイものでちょっとがっかりするかもしれない。これで水割りなどやろうものなら、必ずお腹を壊すことだろう(そもそも、人の手に触れるような場所の氷は、たいてい大きなザラメ状のフィルンで、水割りにならない) 。
更に氷河の表面は、先ほども説明したように、どこかから転がり落ちてきた岩屑や砂礫で、かなり汚れている。新雪をかぶっていない時期に氷河を遠くから見ると、これらの物体を沢山載せた部分とそうでない部分が氷河の移動につれて筋をなし、氷河が文字通り、ゆっくりと流れているのがよく理解できる。もしも時間があったら、電車でモルテラッチュから2駅ティラーノ寄りのディアヴォレッツァ Diavolezza へ行き、ロープウェイに乗って、モルテラッチュ氷河を上から鳥瞰してみるといいだろう(このロープウェイ、夏は恐ろしく混雑するので時間の配分をよく考えて)。
心ゆくまで氷河を眺めたら、もと来た道を駅まで戻ろう。帰りは延々緩い下り坂。
ところで、地球温暖化というのは、本当に人為的なものが第一の原因なのだろうか。アルプス地域では現在あちこちで、溶けた氷河の下からローマ時代の遺跡(街道跡など)が出てきているのだそうだ。ということは、当時は今よりも気温が高かったということだ。また、それより時代が遡る6000年ほど前も、気温が高温で安定していた時期があった。日本でいう縄文時代、縄文海進の頃であり、エジプトなどでは文明社会がほぼ成立した頃でもある。
気候の変化により「食える」土地の範囲が変わり、人間の移動を促す。大きな文明の発生や滅亡が気候の急激な変化としばしば関連づけられるのは、そのためだ。国境によって人間の移動が妨げられるようになった現代は、ひとつの文明が滅びるような戦乱が発生する可能性が低くなるかわりに、地域格差や飢餓人口の拡大が止まらず、この問題が将来どんな方向に進んでいくのか、想像がつかない。
地球温暖化が人為的なものであれば、それに対してはむしろ打つ手があり、望みが持てるというものだ。だが、一部の学者が指摘するように、現在の地球温暖化には、人間よりも更に大きな自然の力が作用しているような気がしてならない 。そもそも、人間の活動が地球の気候に影響を与えているという考え方自体、大きな思い上がりではなかろうか……
山を歩き、いろいろな風景や現象に親しむようになると、ついつらつらとそんなことを考えるようになる。今これをお読みの山好きの皆さんの中にも、そんな方がおられるのではないだろうか。
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