スイスの食卓から (1)
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 皆さんはスイスの食事といえば、どんなものを想像するだろうか。まずチーズフォンデュ?スイスに行ったことのある人なら、ラクレットなんていうのも思いつくだろう。では、スイスの主食は一体なんだろう。パン?それともジャガイモ……?注1

 日本人だからと言って、毎食スシやテンプラを食べている人なんていないが、スイス人だって毎食チーズフォンデュを食べているわけではない。それでは、スイスの家庭では一体どんなものを食べているのだろうか?そこで2つの家族に登場してもらって、スイスの家庭のゴハン事情をのぞいて見よう。今回は身近に感じやすい所というわけで、スイス人の夫に日本人の妻、大きいお嬢さんが1人という家庭にお邪魔してみた。
チューリヒ近郊のエッシャー=藤原家
トーマス(公務員/51歳)
スイス人、グラールス近くの田舎町生まれ
祐実(主婦/52歳)
日本人、神奈川県生まれ
ミナ(ソーシャルワーカーの卵/22歳)
スイス生まれ。延べ3年ほど日本に住んだ経験がある。普段は2人の友人と住居をシェアして暮らしているが、今は建物のリフォームのため、一時的に両親と同居中
(名前はすべて仮名、職業、年齢設定も実際と異なる。右写真は本文とは別の家庭)

 トーマスと祐実は25年前、北欧の大学の外国人向け夏期講座で知り合い、結婚した。トーマスの告白によれば、学生食堂で相席になった祐実が、自分にコーヒーを持って来てくれたのを、自分に気があるからだと勘違いし、逆に惚れ込んでしまったのだと言う(日本人のそういう行動には、普通、特別な意味はないという事実を後で知った)。

 事の発端からして文化のギャップがきっかけだった2人は、結婚後まもなくは食習慣の違いにとまどうことも多かった。たとえば、日本で食される粘りのあるコメが、スイス人のトーマスには気持ちが悪い。かと言って、スイスで好まれる米はポソポソして独特の香りがあり、祐実はなかなか慣れることができなかった。また、スイスで売っているジャガイモは、祐実の実家だったら「ブタ芋」と呼ぶようなベトッとしたジャガイモばかり。苦労してやっと見つけたほくほくジャガイモを、トーマスは、こんな粉っぽい屑芋が好きなんて信じられない、と言って嫌そうに食べる(それでも殊勝な事に残さず食べたのは、さすがスイス人と言うべきか)。挙句の果てにトーマスは、「日本人はデンプン質を食べ過ぎる。それは不健康な習慣だ」と、ブツブツ小言を言う……などなど。日本の常識とスイスの常識が食い違うことばかりで、2人にとっては毎日がカルチャーショックだった。

★ ★ ★

 祐実は海辺の生まれ育ちで大の魚好きなのだが、トーマスはスイス人、それも山奥で育った人の常で、以前は海の魚がまるっきり食べられなかった。マスのような淡水魚もあまり得意ではない。それでも例の狂牛病騒動以来、トーマスもだいぶ魚を食べるようになり、今ではエッシャー=藤原家のオカズは肉料理より魚料理の方が多いくらいになった(スイス人の多くがトーマスのように頑張っているらしく、ここ10年近くでスイスの魚の消費量はかなり伸びた)。

 ただし、トーマスが魚の骨を非常に怖がるので、祐実は困っている。トーマスの分の魚は、きれいに始末してある切り身を使うか、さもなければ調理前に毛抜きで1本1本骨を抜くしかない。日本人が、鶏肉の皮に羽が残っていたりしたらゾッとするのと同じ心理のようだ。ちなみに彼は、エビやカニの類にいたっては、気味が悪くて見るのもダメである。

 トーマスはチーズの焼ける臭いが大嫌いで、加熱したチーズの料理はできれば食べたくないと思っている。スイス=チーズフォンデュのイメージを持つ日本人にとっては意外かもしれないが、実はトーマスのような人は案外多い。スイスの田舎家庭料理にはチーズがダシがわりにバンバン使われるので、子供の頃にはすでにあの臭いに嫌気がさしてしまうのだという。それなのに生のチーズは好きだというのがちょっと不思議だ。もっとも日本でも、刺身の魚は好きなのに、煮魚は嫌いという人はいるから、同じようなものか。

 トーマスと娘のミナは日本食が大好きだ。……とは言っても、トーマスはこれまた年輩のスイス人の常で、日本食特有の甘い味付け、たとえばスキヤキのタレのような味が苦手だ。その昔、はじめて日本を訪れたときにトーマスがショックを受けたのは、日本ではほぼ全ての食品、しかもソーセージやベーコンのようなものにまで砂糖が入っているということだった。そのため、大昔に夫妻が日本で暮らしたとき、トーマスは最初の1ヶ月で非常に痩せた。一方のミナは、味覚のボーダレス化が進んだ現代スイスの若者らしく、甘い味には特に抵抗感はないが、一応この家では弱者(?)に優しく、蕎麦のツユや寿司飯のようなものにもほとんど砂糖は使わないことになっている。

★ ★ ★
 祐実がスイスに住みはじめてから25年、最近は日本に帰省することも2〜3年に1度くらいになった。そのせいで、自分の作る日本食は、日本食というよりは「日本食ふうの謎の料理」になりつつあると自覚している。だいたい祐実自身は、最初から日本食への執着心があまりなかった。

 エッシャー=藤原家のように、スイスでは夫婦のどちらか、あるいは両方外国人というケースが非常に多い。スイスでは統計上、住人の5人に1人が外国人だが、都市部に住む祐実の実感では、半分は外国人のような気がする。

 多民族化が進む一方、万事保守的なドイツ語圏スイス人は、味覚に関しても保守的だったが、最近になってようやく、さまざまな民族の料理が目立つ場所に顔を出して来るようになった。娘のミナは友人の家などで、各国出身のお母さん方からそれぞれの民族料理を習ってくるが、もしかしたらエッシャー=藤原家の日本食と同じで、長年の潜伏期間のうちにスイス風になり果てた各国料理なのかもしれない。


エッシャー=藤原家のある日のメニュー
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ミナは早朝にコーヒーだけ飲み、サンドイッチを作って、職業実習先へ出勤。そこではみんな午前10時の休憩時間に軽食をとるので、サンドイッチはその時に食べる
祐実とトーマスの献立
カフェオレ
(どんぶり鉢のような巨大なマグカップで)
バターをたっぷり塗った農家パン
(ライ麦粉がたっぷり入って灰色っぽい、田舎ふうのパン)

チーズ数切れ
(ドライブで行った山村の直売所で買ったアルプチーズと、ミグロ注2で買った、トンムというカマンベールに似たチーズ)
 典型的なスイスの朝食。このパターンは毎日不変で、変化と言ったらせいぜいチーズとヨーグルトが入れ替わる程度。日本のように朝からサラダなどを食べたりすることはまずない。

 パンの塩分が強いので、それに塗るバターは無塩になっている。普通の日本人にはたいして気にもならないことだが、トーマスにとってはこれは重要なことで、日本の薄味パン&塩入りバターの組み合わせは、今もってなお彼の苦手である。だいたいトーマスはパンにバターを厚さ5mmくらいの勢いで塗りたくる(ちなみに彼は痩せている)。

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ミナは外食。家から職場が近いトーマスは、昼食を食べに一度戻って来る
祐実とトーマスの献立
テーブルウォーター
(水質がいい地区なので、水道水。来客がある時だけミネラルウォーター
・野菜サラダ
(毎日必須、時々豆サラダや温野菜)
けんちん汁
(実情は醤油風味をつけたコンソメで煮込んだ、野菜のごった煮スープ)
白身魚のムニエルとタリアテッレ(幅広パスタ)、バジリコ風味のクリームソース
コーヒー
プルーンの自家製コンポート
 エッシャー=藤原家では昼と夜にはたっぷりの野菜を欠かさない。現在、特に夏のスイスは流通する野菜の種類が日本とは較べものにならないくらい多い上、消費量の多い基本的な野菜は、1つの種類につき、味や特徴の違うものが常に数品種程度は並んでおり、サラダひとつでもかなりのバリエーションが持て、祐実は助かっている(日本のように単一品種だけが市場を席巻する「桃太郎トマト」現象は起こりそうにない)。もっとも、以前は冬になると極端に野菜の数が減り、なかなか大変だった。

 スイスの家庭料理、とりわけスープの塩加減は非常にきつく、当然のことながら卒中になる人も多い。トーマスも最初のうちは、薄味を「水っぽい」と言って嫌がったが、25年にわたる祐実の教育の成果で、やっと薄味に慣れて来た。

 バジリコ風味のクリームソース……御大層な名前だが、要はフライパンに残った魚の焼き汁にワインと生クリームを注ぎ、刻んだバジリコ、塩コショウをパッパと振り込んで1分ほど煮詰めただけ。スイスの年輩の人には、生クリームをたっぷり使ったソースや料理が「ごちそう」みたいな感覚があるのだ。なんだかギトギトした料理を想像するかもしれないが、白身魚や、脂肪をきれいに取り去った肉をメインに使うので、食べた感じはそれほどしつこくない。トーマスにとっては、素材そのものの脂肪分が多い日本の料理のほうが、脂っこく感じることもあるようだ。

 スイスの多くの家庭同様、この家でも、昼や夜の温かい料理が出る時にパンを食べることはあまりなく、パスタやコメ、ジャガイモ料理で炭水化物をとることが多い。

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家族全員で、だいたい7時ちょっと過ぎに
家族全員の献立
各自好きな飲み物
(水、りんごジュース、ワイン)
野菜入り煮込み鶏そば注3
(そばは実家の姉が送ってくれたもの。ツユは当然砂糖抜き)
ルッコラのおひたし
(これはうまい!筆者感激)
コーヒー
 エッシャー=藤原家の夕食はいつも軽めの料理で済ませる。「健康にいい」と聞いて始めた習慣だ。ちなみに、ドイツ方面にルーツを持つ家庭では、昼食に重点を置き、夕食は冷たい料理…たとえば、サラダとパテのようなもので簡単に済ませてしまう家もあるが、普通、スイスの家庭では、夕食にしっかりと温かいものを食べているところが多い。日本人の祐実はさすがに、いくら軽い食事とはいえ、夕食を冷たいものだけで済ます気にはなれないので、温かいメニューを用意する。

 日本から来た祐実の友人たちが羨むのは、スイスの食卓に並ぶメニューのシンプルさである。何種類ものオカズを調理しなくて済むから楽ねえ、と言われる。確かにスイス人の家庭では、日本のようにやれ小鉢だ箸休めだと、くだくだと何種類もオカズを並べたてることはない。基本的には「前菜兼用のサラダ、スープ、メイン料理とつけ合わせ」で、1回の食事で出すのはせいぜい3〜4品目。ただし、品目が少ないとはいえ、毎食ごとにいちいちオカズをきっちり料理し、しかも余らせないというのはかなり面倒臭い(食べきれないものにはラップをかけ、以後朝晩食卓に出して数日食べ続けるという「日本風」の習慣を家族はとても嫌がる)。日本の実家でやっているように、余り物をチンして2〜3日ごまかせたら…と、時々祐実は考えている。

..夜食
 だいたい夜9時すぎ、家族であれこれ喋りながら、ビスケットやドライフルーツなどの甘いものを少々つまみ、コーヒーかお茶を飲んでくつろぐ。

 サッカーの特別な試合がある時など、トーマスは夕食後に近所の食堂へ行き、気の合う仲間と一緒に夜遅くまで観戦する。実はトーマスはスポーツ観戦にそれほど興味を持っていないのだが、なんとなく習慣になっているようだ。


--この項続く
次回はベルン近郊のイェンニ=ルッツ宅へ

(注1) ジャガイモ
しばしば「スイスの主食はジャガイモ?」と尋ねられるが、答えはとりあえずノー。思ったほど食べられているわけではない。
そもそも「主食」の概念が日本とは違い、普通のスイス人に「スイスの主食は何?」と尋ねると、たいてい「肉、穀物、乳製品……」というような答えが返って来る。その手で行けば、日本の主食はさしずめ魚と言ったところで、事実、そう紹介している本もある。つまり
「主食=炭水化物の供給源になる作物」の概念は一般的ではないらしい(もちろん学問的には別)
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(注2) ミグロ Migros
コープ
Coop と並ぶ、スイス最大のスーパーマーケットチェーン。日本で言ったら「イトーヨーカ堂」みたいな感じ。興味があったらこちらをどうぞ
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(注2) そば
スイスでも山間部でソバを栽培、食している地域がある。たとえばグラウビュンデン州の「ピツォッケル」(または「ピッツォッチェリ」)というそば粉のショートパスタは有名。また、粉にひかず、そば米のままバターやミルクと一緒にお粥に炊くこともある。
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日本でもおなじみの「クノール」のスープの素(写真はお徳用巨大パック)。既製品のダシの素を軽蔑しつつ、簡単なのでやっぱり使ってしまい、あとで自己嫌悪に陥るのはどこの国も同じ。

「クノール」「マギー」などのスープストックの素は、発売されている国や地域によって結構風味が違う。たとえばスイスやフランスでは香草入りタイプが人気だし、スペインなら少々ニンニク臭かったり、台湾だったら中華風の香辛料の香り……あちこちの国へ行っては、こればかりお土産に買い集めて試す人もいる

       

       

あるお宅(築200年以上!)の台所。これは小家族用の小さなセットだが、たとえ大きなセットでも、一般に日本に較べて流しのシンクが小さく、要領をつかむまではちょっと使いにくい。しかし作業台の水切れを良くするために微妙な傾斜をつけてあったり、全体がうまく設計されている。
日本のキッチンセットは大きくて立派な割に、天板に水たまりができちゃったり、汚れが落としにくくて不衛生な、地模様入りのステンレス板を使っていたりして、意外におバカなんだよなあ……

右端に見えるまな板は「日本みやげ」。スイスではまな板の存在意義が違うので、日本で使っているような大きなものは手に入りにくい

       

       

写真は大衆食堂の料理なのだが、注目はタマゴ。
筆者の住む千葉県あたりでは、10個1パックでせいぜい150円、特売だったら100円しないこともある「物価の優等生」だが、ここスイスではタマゴが高い!国産なら10個でだいたい5.5〜6SFr(日本円で500円前後)くらいする。
デ×××クあたりからの輸入品だとその半額の2.5〜3フランくらいだが、「青白い黄身が不気味」「工業製品」などと陰口をたたかれて敬遠されるし、そもそも小売している所をそれほど見かけない。

余談だが、日本ではデ×××ク産の畜産品は割と健康的なイメージで、人気があると言ったら、スイス人に鼻で笑われてしまった……

    

1回の食事でこんな感じ。これにパスタなど炭水化物類が加わると一丁あがり
(左のメニューとはちょっと違うが……)
28. Sep. 2004