祐実は海辺の生まれ育ちで大の魚好きなのだが、トーマスはスイス人、それも山奥で育った人の常で、以前は海の魚がまるっきり食べられなかった。マスのような淡水魚もあまり得意ではない。それでも例の狂牛病騒動以来、トーマスもだいぶ魚を食べるようになり、今ではエッシャー=藤原家のオカズは肉料理より魚料理の方が多いくらいになった(スイス人の多くがトーマスのように頑張っているらしく、ここ10年近くでスイスの魚の消費量はかなり伸びた)。
ただし、トーマスが魚の骨を非常に怖がるので、祐実は困っている。トーマスの分の魚は、きれいに始末してある切り身を使うか、さもなければ調理前に毛抜きで1本1本骨を抜くしかない。日本人が、鶏肉の皮に羽が残っていたりしたらゾッとするのと同じ心理のようだ。ちなみに彼は、エビやカニの類にいたっては、気味が悪くて見るのもダメである。
トーマスはチーズの焼ける臭いが大嫌いで、加熱したチーズの料理はできれば食べたくないと思っている。スイス=チーズフォンデュのイメージを持つ日本人にとっては意外かもしれないが、実はトーマスのような人は案外多い。スイスの田舎家庭料理にはチーズがダシがわりにバンバン使われるので、子供の頃にはすでにあの臭いに嫌気がさしてしまうのだという。それなのに生のチーズは好きだというのがちょっと不思議だ。もっとも日本でも、刺身の魚は好きなのに、煮魚は嫌いという人はいるから、同じようなものか。
トーマスと娘のミナは日本食が大好きだ。……とは言っても、トーマスはこれまた年輩のスイス人の常で、日本食特有の甘い味付け、たとえばスキヤキのタレのような味が苦手だ。その昔、はじめて日本を訪れたときにトーマスがショックを受けたのは、日本ではほぼ全ての食品、しかもソーセージやベーコンのようなものにまで砂糖が入っているということだった。そのため、大昔に夫妻が日本で暮らしたとき、トーマスは最初の1ヶ月で非常に痩せた。一方のミナは、味覚のボーダレス化が進んだ現代スイスの若者らしく、甘い味には特に抵抗感はないが、一応この家では弱者(?)に優しく、蕎麦のツユや寿司飯のようなものにもほとんど砂糖は使わないことになっている。
|