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中高年トレッカー K子さんのロゼック谷(後編)
前編のつづき
地域図はこちら
   
 スルレイ峠の小休止のあと、ロゼック氷河に向けて歩き始めました。お花畑の中のなだらかな下りは快適で、前に見える氷河にどんどん吸い寄せられていくような気分です。
    
私:なんか、この景色ってちょっと双六とか三俣蓮華とか、あの辺の感じにちょっと似ていると思わない?

主人:そう言われてみれば、そんな感じもする。

私:あーあ、北アルプスにも今でも氷河があればいいのにな〜
主人:氷河がないから、オレたちでも歩けるんだと思うが。
私:ほらほら、そこの岩なんか腰掛けるのにちょうどいい所ねえ。さっきの峠じゃなくて、こっちでおやつにすればよかったわねえ。その方が落ち着いて食べられたわ。

 
空は相変わらずの上天気。だんだん気温も上がり、かんかん照りの太陽の下を歩いているうちに、少し暑いくらいになってきました。山岳会で言われている通り、時々少しずつ水を飲みながら歩きます。
       
主人:なんだお前、また水飲んでるのか?

私:だって結構汗かいちゃって。水飲んでサラサラ血液を維持しなきゃ。

主人:オレなんか高校時代に野球部で、運動中は絶対に水飲ませてもらえなかったぞ。頭からブっかけられたことなら何度もあったけどな。おかげでこの歳になってもあんまりノドが乾かない。
私:それはよくないわよ〜
主人:そういう訓練が出来てると、あんまり汗かかなくなるのだ。スポーツドリンクならまだしも、真水飲んで汗ばっかりかいてると、体の中のミネラル分が減るんだぞ
私:それもそうだけどね


 
歩いていると、時折登山道の周囲をとりまくお花畑が途切れ、岩だらけの斜面を横切るようになるところがあります。そんな所にはたいてい大小の沢が流れているので、それを渡らなければなりません。中には何条にも枝分かれした小さい滝のようなものもあり、木の板が渡してある所もあります。実は私、こういうところがちょっと苦手。へっぴり腰で渡っているところを写真に撮られてしまいました。

 スルレイ峠から1時間ほどで、ロゼック氷河末端にある湖の真上にやって来ました。たくさんの氷塊がプカプカ浮いた青白い水面は神秘的です。氷河は湖の途中まで張り出し、断面は今にも崩れそうです。娘の説明では、あの湖のところへ下りるそうですが、教わった通りに地図で見ると、この辺りには下り口はなく、道はまだまだ1.5kmくらいは真っすぐ氷河の上流へ向かい、そこで折り返して下るようになっているようです。

 氷河に見とれながら歩いていくと、先に行った娘が写真を撮りながら私たちを待っていました。どうやら道の分岐点に来たようです。
   

娘:このまま行くと、SACの小屋があるんだよね。あそこの岩盤の上に見えるでしょ。そこまで行く?それとも行かないで下りようか。

主人:うーん、距離的にはたいしたことないが、なんとなく面倒そうな道だな。

私:それより早くあの湖に行きたいわね。
娘:OK、じゃあここから下ります。

 いままで来た道を180度折り返すようにして、下りの道に入ります。はじめは今までと変わらないような、お花畑の中のなだらかな下り坂だったのですが、次第に勾配がきつくなり、足下も岩がちになってきました。この辺は登山者が歩きやすいように、ガレをステップ状に組んだり、岩盤に足場を切ったりという整備がしてあるのですが、段差がヨーロッパ人の足の長さにできていて一歩一歩が非常に大きく、足の短い私には逆に歩きにくいのです。小さな歩幅でと思いつつも、つい面倒になり、飛び降りるような感じで歩いているうち、少しヒザが痛くなってきました。
   

   ★ ★ ★
   

 幸い歩きにくい部分はそれほど長い距離ではなく、途中から娘が水以外の荷物を全部背負ってくれたこともあり、とりあえず難なく湖のそばにたどり着きました。ここでお待ちかねの大休止です。私たち以外にも、たくさんの人たちがここで荷物を下ろし、お弁当を広げたりして思い思いに過ごしています。

 私はさっきの下りですっかり汗だくになり、とてもノドが乾いていました。ところが私の水の残りは、もういくらもありません。
   

私:ねえ○子、ここからロゼック小屋まで、あとどのくらいかかるかしら。
娘:そうね、ゆっくり見積もってあと2時間ってところかしらね。実際には1時間半もかからないんじゃないかと思うけど。
私:ねえ、あとどのくらい水持ってる?
娘:え、もしかして飲み切っちゃった?お母さんは汗っかきだから……わ、顔から塩吹いてる、ハハハハハ。大丈夫、水はまだ沢山あるから、あと全部あげるわ。
私:あらやだ、お前ほとんど飲んでいないじゃないの。そういうのも体に良くないわよ。
娘:そうは言っても、ノド乾かない性質なんで。

 水を飲んで落ち着いたところで、その辺の適当な岩の上に腰をおろし、サンドイッチとサクランボで軽い昼食にします。スイスではこの季節(6月下旬〜7月)になると、ミッテルラントの平野部の至る所で、サクランボがたわわに実っているのが見られます。市場や商店ではこのサクランボを山盛りにして売っていますが、甘酸っぱくて味が濃く、美味しいこと。


   ★ ★ ★
    

 小一時間の小休止の後、最終目的地のホテル・ロゼックに向かって歩きだしました。しばらくは湖に沿って歩きますが、やがて湖が尽きると、これまた奥に立派な氷河のある谷と合流します。この谷が、さっきスルレイ峠からきれいに見えたチエルヴァ氷河だそうです。

 谷底は乾き上がった岩石だらけの風景になり、道はうず高く積もったガレの間を縫うように通っています。何が面白いのか、娘はそれらをいちいち写真に収めたり、地図に書きつけたりしています。
   

私:ねえ、この岩は人間が積んだんじゃないのよね。

娘:これは氷河が運んできたモレーン。日本でもこういう所見るでしょ。
   
 ところで、氷河から離れると急激に暑さが厳しくなってきて、ついつい残り少ない水に手をつけてしまいます。おまけに、一時はそれほど気にならなかったヒザ痛が、またぶり返してきました。さっきまでは少しも疲れたなんて思わなかったのに、急に足が前に進まなくなってきました。
   

主人:どうした?バテちゃったか。

私:バテてないわよ。
   
 とは言っても、本当はかなりバテています。先に進んでいた娘も、私のペースが急に遅くなったのに気づいて、再びこちらに引き返してきました。
   

私:ねえ、あとどのくらい?

娘:あと2kmくらい。あそこに小さな丘が見えるでしょ。あの下に小屋があるのわかる?
私:あれかあ。
娘:あらヤダ、お母さん水全部飲んじゃったの、大丈夫?
私:あんまり大丈夫じゃないみたい。
娘:よろしい。私が先に行って、水持ってきてあげましょう。ついでだから荷物も貸して。
   
 娘は私のリュックを背負うと、ものすごい勢いでロゼック小屋に向けて突撃して行ってしまいました。思えば昔は肥満児で、学校の徒競走でもマラソンでも文句なしのビリだったのですから(もののたとえ、ではなくて本当にビリだったのです)、人間というのは結構変わるものです。

 それにしても、岩がちだった谷底の景色は次第に緑を増し、草地の間を縫うようにして沢も流れ、本当は庭園のように美しい風景です……が、なんだか気分まで悪くなってきて、もうそんなことを考える余裕は全くありません。とにかくゆっくりですが、前に進みます。

 15分もたったでしょうか、前の方にものすごい土ボコリが巻き上がっている、と思ったら、娘がこちらに向けて駆けて来るのが見えました。荷物は置いてきたらしく、速度違反のダンプカーのような勢いです。
   

娘:は〜い、お水ですよ。ガス入りとガスなし、両方あるけど。

私:あー、気がきいてる。
   
 娘から炭酸ガス入りのミネラルウォーターをもらいました。気分が悪いときにこれを飲むと、とても楽になるのです。しかも即効性があります。少し塩分も含まれているようなので、今日のような脱水症状にはそれも良いのかもしれません。昔はじめてこれを飲んだ時には、なんて不味いものだろうと思ったものですが、最近はすっかり慣れました。

 水を飲んで人心地つくと、さっきまでは遥か彼方に見えた小屋が、急に間近に感じられるようになってきました。

  
   ★ ★ ★
    

   
 やっと最終目的地のホテル・ロゼックに到着しました。たいそうな賑わい方ですが、運良く、眺めの良いテラスのテーブルに陣取ることができました。

 ここからはポントレジナの駅まで、名物の乗り合い馬車で谷を下ります。娘はさっさと馬車の席を予約すると、私たちのテーブルにやって来てドカッと席に座り、カフェの娘さんを捉まえてコーヒーと何だかを注文しました。
   

娘:あれ?そういえばお母さんたち何か注文した?

私:何よ〜、なんだか長々しゃべっているから、てっきり私たちの分まで頼んでくれたと思った。まだしてないわよ。
   
 改めて私と主人に飲み物だけ頼んでもらいました。娘はコーヒー(なぜか私たちの倍もある大盛り)とサンドイッチを平らげ、そのうえ更に巨大なケーキまで取り寄せてご満悦のようです。そんなこんなでゆっくりしているうちに、私たちの乗る馬車の時間になりました。

  
   ★ ★ ★
    

   
 ポントレジナに下る馬車は満員で相当な重量だと思うのですが、これを1頭の馬が引くと思うと気の毒になります。まあ、道はほとんど下り坂で、馬車はブレーキをかけながら進むのですが、時には馬の力に頼る部分もあります。そうは思いつつももう歩く気は起こらず、揺られているうちにやがて眠くなってきました。
 ………

 気がつくと、馬車はすでにポントレジナの駅前に入るところでした。もう夕方。太陽は不思議な角度から照りつけています。この状態がまだ4〜5時間続くのが、緯度の高いスイスの夏の夕べです。この長い夕べの時間をどうやって楽しむかも、スイス旅行の楽しみのひとつです。娘と主人はサメダンの村に戻って、ホテルのレストランで食事する話で盛り上がっています。なんでも、ミシュランで星がついているお店なのだとか(注)
   

私:それって「ホテル・ベルニナ」のレストランの間違いじゃないの?

娘:Doch、うちのホテル。ベルニナのレストランはねー、うちのホテルのご主人が週に何回だか出稼ぎに行っているんだって。
私:へーっ。そういえば旦那さんがコックさんの格好で道を渡ってくるところ見たわ。
娘:さてさて、今日は7時半から予約してありますからね〜。その前にゆっくりシャワーでも浴びてくっだいな。

   
 1日山を歩いて、夜は人に作ってもらったものを食べ(この嬉しさは男性にはわからないワ)、これだから旅行は極楽です。今日はちょっとアクシデントもありましたが、幸いたいしたこともなく終わりました。旅はまだ、始まったばかり。明日はどこに行くのでしょうか?   

  
★ おわり ★
(1995年7月)
   

この項の山行はだいぶ前のことなので「トレッキング記」として紹介いたしました。このコースに関しては多くのガイドブックが取り扱っていますので、最近の状況についてはそれらを御参考になさって下さい。

交通:
コルヴァッチュ展望台およびムルテル
サン・モリッツよりマロヤ方面行きバスで20分、コルヴァッチュバーン Corvatschbahn 下車、そこからロープウェイで。
ホテル・ロゼック〜ポントレジナ間
乗り合い馬車(要予約)で1時間だが、徒歩でも行ける。その場合は約1時間半

(注)本文中のレストランについて:
残念ながらこのレストラン、現在は星を失ってしまいました。とは言え、今でもちょっといいレストランです。興味のある方は探してみてください。ホテル・Dです。宿泊もおすすめです。
スルレイ峠から見たチエルヴァ氷河

   

お花畑とロゼック氷河。この道はとにかく花、花、花です

   

写真のフィルムを取り換えるために小休止していた娘に追いついたところ。こんなにいい景色なのに、なんでそんなに早く歩くの?

    

大の苦手の沢を横切るところ。こうして後で見ると、全然怖くもなんともなさそうな所なのですが……
話は変わりますが、娘は橋が苦手。とは言っても怖いとかそういうのではなく、なぜかあちこちで古くなった木橋やスノーブリッジなどを踏み抜いています。10年以上前には上高地・横尾で横尾大橋(架け替わる前の)を踏み抜き、大穴をあけました。よくケガしなかったものです

   

画面中央の灰色がかった白い部分が氷河湖。あそこに向けて下りていきます 

   

湖への下りの途中。このあたりはまだ楽だったのですが、次第に勾配が急になり、文章にあるようなきつい下りになりました。もっとも、特別危ないような所はありません

   

氷河湖のそばで。この写真にはあまり写っていませんが、水面には夥しい数の氷塊が浮かんでいました

 

湖の出口近く。この先、画面の中央を横切る斜めの尾根(娘による注・すんばらしいラテラル・モレーンです)の向こう側が、スルレイ峠から見えていたチエルヴァ氷河との合流点になります

     

モレーンの小山の間を縫うように通る道。このへんまで来ると、相当疲れが出てきました。高所から降りてくると、暑さがかなりこたえます

   

このあたりから、やっと終点のホテル・ロゼックが見えて来ました(写真だとわかりにくいのですが、写真中央の丘の下。)

    

ちょっとびっくりするような色に塗られたホテル・ロゼック。レストランのテラスは山から下りてきた人たちで大賑わいでした。
ここからポントレジナへ向かう馬車はかなり混雑するので、最初に馬車の予約を済ませてからゆっくりお茶を飲めばいいそうです

     

帰りの馬車の中。お隣は日本人のカップル。写真には写っていないのですが、私のお向かいに座ったドイツ人のおじさんは、身振り手振りつきでドイツ版「ばふんまんじゅう」の話をして、みんなを笑わせようと一生懸命になっていました。
やがてそのおじさんも含めて、乗客は皆眠り込んでしまいましたが……

    

   

   

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