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中高年トレッカー K子さんのロゼック谷(前編)
地域図はこちら
   
 皆様、はじめまして。私の名前はK子と申します。

 私の趣味は山歩き。今流行の中高年トレッカーですか、私もその中の1人ということになるのかしら。最近、同じくらいの年齢の方々ばかり集まった、大きな山岳会に所属するようになり、週末ごとに奥多摩や秩父の山を歩くようになりました。もっとも、20年以上前から主人と2人の娘とともに北アルプスに登ったりしていましたので(年に数回でしたけど)、いわゆる付け焼き刃の登山者ではないつもりなのですが……

 2人の娘のうち下の方はじきに山に行かなくなってしまいましたが、上の方は肥満児だったくせに山と相性が良かったらしく、そのうちに家族だけでなく、友人たちとも山に行くようになりました。その上地図に興味を持つようになり、気がついたらいつの間にか地図制作の会社に入ってしまい、今ではその会社のお局として君臨しているようです。

 ところで、私は地図なんかまるっきり読めません。あの、びっしりと画面を埋め尽くす線を見ただけで、目がクラクラッとしてしまいます。そういう方、多いでしょ?ところが、そんな私を娘があれこれ説教するのです。 
       

娘:地図も持たないで、どうやって山歩くっての!

私:だって、リーダーが持っているもの。

娘:リーダーとはぐれちゃったら、どーするのっ!
私:そんなこと、絶対ないもの。
娘:何を根拠に、絶対ないって言うんだいっ、キーッ!!

   
 とまあ、いつもこんな調子です。まったく偉そうに。

   ★ ★ ★

   
 そんな娘と主人とともに、スイスをハイキングすることになりました。行き先はエンガディン。はじめはサン・モリッツに泊まるのかと思い、楽しみにしていましたが、聞いてみたらそうではなく、すぐ近くの違う村に泊まるというので、少々がっかり。

 チューリヒから電車を乗り継ぎ4時間、小さな村にしては割合大きな駅に到着しました。最初はこの村にあまり期待していなかったのですが、来てみたら古い建物も多く、裏山にはどっしりした石の教会もあって、意外にいい村です。おまけにホテルも気に入ったし。
   

私:ねえお父さん、明日はどこに行くのよ。
主人:明日は天気が良さそうなので、早速ピッツ・コルヴァッチュにロープウェーで登ってから、ロゼック谷だな。
私:ロゼック谷って、いろんな本によく出てくるロゼック谷?
主人:ん。
私:それって、この近く?
娘:お母さま、自分が今どこにいるかおわかりですか?
私:スイス。
娘:そうじゃなくって……
私:あそこよ、サン・モリッツじゃなくて、えーと、ホテル・D!
娘:……まあ、ホテルの名前だけ覚えているだけでも良しとしよう。ここはサメダンとゆー村です。これ地図ね、ここがサン・モリッツ。で、ここがサメダン。明日行くコルヴァッチュがここで、こう、こーやって歩いて、最後にホテル・ロゼックがここ。あ、そういえば2万5千図を渡すから、明日は持って歩いてね。
私:この間○○○○山岳会の「地図読み講習」行ったから、バッチリよ。この地図に磁北線引いていいかしら。
娘:どうぞ。地図のこの細いタテヨコ線はひと桝が1kmね。これに対して何度だかってここに書いてあるから。それじゃーおやすみなさい。

私:あらー真北との差が2度もないのね。日本と全然違うわ。


   ★ ★ ★
    

 次の朝。朝食が始まる7時ぴったりに食堂に行くと、もう10人くらいの人たちがテーブルについて食べ始めています。中にはリュックを背負ったまま山靴のドカドカという音をたてて現れ、大きな塊から切りだしたパンにチーズを挟み、そのまま出かけてしまう人もいます。私たちのホテルは山に行く人が多いようなので、そういう点もとても気楽です。
   

私:このパン、おいしいわねえ。私パン嫌いなんだけど、これはおいしいわ。

主人:なんだ朝っぱらからてんこ盛りだな。よくそんなに食えるな。
娘:まあ、日本では今はもう午後2時過ぎてますからね。いくらでも食べてください。ところでお母さん、これ。

 娘がなにか小さな紙片を差しだしました。日本語の下に横文字で何やら書いてあります。
   

娘:お母さん、これがホテルの住所と名前。あと電話番号。そして「連れとはぐれてしまいました」「サメダンへ行きたいのですが、どうしたらいいでしょうか」って書いてある。もし迷子になったら、駅員さんとか信用できそうな人にこれを見せて、なんとかしてもらいなさいね。

私:何これ、迷子札じゃないの、失礼しちゃうわね。
  
 と、一応怒ってはみたものの、少々安心しました。少なくともこれがあれば、イザという時なんとかなりそうです。以前山友達に聞いた話なのですが、九州の九重山に行ったときに、グループとはぐれて困り果てている観光客を拾ったことがあったそうです。ところがその方、驚いたことに、自分の参加するグループがどういうコースを歩いて、その日どこに泊まるのか全然知らなかったのだとか。
   

娘:お母さん、それで今日はどこに行くかおさらいしてみましょう。

母:コルヴァッチュとロゼック谷!!
娘:OK。

  
   ★ ★ ★
    

 ロープウェーに乗り、標高3303mのコルヴァッチュの展望台へやって来ました。今日は素晴らしい天気で、周りの山も湖もとっても良く見えて気分爽快。ところが娘ときたら、急に高いところにやって来たものだから脳貧血を起こし、日向のベンチでへばっています。そういえば、足で歩いて山に登る時には高所トラブルを起こさない人が、ロープウェーなどの乗り物で上がってくるとダメという話もよく聞きます。
   

私:すばらしい景色ねえ。山がみんなアイスクリームみたいに見えるワ。

娘:くくく、不覚。私は高山病には強いんだけど、脳貧血とは。来る前が忙しすぎた……K子さんこそ、高山病に弱いくせに大丈夫ですかいな。
私:全然平気。あー爽快爽快、クスクスクス。

  
   ★ ★ ★
    

 もう少しコルヴァッチュの展望台にいたかったのですが、そろそろ下りて歩こうということになりました。再びロープウェイに乗って途中駅のムルテルという所で降り、そこからトレッキングのスタートです。駅の周囲には私たちと同じような人たちが、いざ出発という感じで賑やかに荷物を直したり、日焼け止めを塗り直したりしてはしゃいでいます。

 すっかり調子を取り戻した娘がまたまた地図を広げ、もう一度今日のコースの説明をするぞ、と偉そうにしています。よく考えてみれば、トレッキングのコースの選定は主人がしているはずなのですが、主導権は完全に娘に握られているようです。私も買ったばかりの自慢のコンパスを取りだし、昨日磁北線をバッチリ引いた地図を出しました。
   

娘:お母さん、今自分がどこにいるかわかる?

私:どこって、ムルテルでしょ。
娘:この地図のどこがムルテル?
私:どこって、えーーーと、あれだから……
娘:ヒントをあげましょう。乗り場の近くには湖があります。それとロープウェーの線はこういうマークです。
私:……ここかしら。
娘:そこはディアヴォレッツァ。しかも鉄道駅のほう。あ〜〜〜絶対そんなことだろうと思った。地図読み講習って一体何やってんのよ。
私:最初にコンパスの使い方を習ったわよ。
娘:とほほ……コンパスがあっても、自分が今地図上のどこにいるのかもわからないんじゃ、何も意味がないのヨ。まず、等高線の読み方や地図記号の意味を覚えましょうね。
私:だって、講習はそういう順番になっているのよ。それに、スイスのはわからないわよ。
娘:日本の地図が読めれば、スイスのも読めます。まあここでアレコレ言っててもしょうがない。いい、これから歩く所を赤で線引くからね。まず、スルレイ峠という所まで行きます。そこまでは時間いくらもかからない。それから先は2案、まっすぐにホテル・ロゼックに向かうか、ロゼック氷河の末端まで行って、そこからホテル・ロゼックへ行くかのどちらか。まず、峠まで行って今日の調子を見てから考えましょう。では、出発。

  
 娘は凄い勢いで歩き出しました。田舎育ちのおかげで、中年オバサンになった今でも足だけは異常に丈夫なのです。ところで、いつの間にか主人の姿が見えないのですが……やだ、あんなところで写真なんか撮ってる。娘は娘で、1人でどんどん先に行ってしまいました。あの子が山行のリーダーなんてした暁には、行方不明者が続出するに違いありません。

  
   ★ ★ ★
    

 ムルテルのロープウェー駅からスルレイ峠までは、あまり起伏のないガレ場を歩いたあと、ちょっとだけ登りがあります。下から見ると憂鬱になる所ですが、実際に歩いてみると本当にちょっとだけで、標高差は100mくらいです。こうして30分も歩かないうちにスルレイ峠に着いてしまいました。ここにはちょっとした食事ができるらしい山小屋と小さな池があり、池の周りにはイタリア語を話す若い人たちが大勢で賑やかに騒いでいます。

 素晴らしい青空に太陽が輝き、岩の照り返しも強いのですが、ロゼック谷を挟んだ向かいに見える氷河からの照り返しはもっと強烈です。あんなに遠いのに。たまに聞こえる遠雷のような音は、氷河が動く音なのでしょうか。結構気温も上がって来ましたから。
   

私:ねえ○子、あれがロゼック氷河?
娘:あれは隣にあるチエルヴァ氷河ね。ロゼック氷河はそこの山の影になっちゃって見えない。

 娘は地図の上であれこれ指さし、あの尾根がこの部分だとか、クレバスの密集しているのがここだとか、景色と対比させていろいろ教えてくれます。地図というのもこうやって説明されると確かによくわかるのですけれど、いざ自分で使うとなると、難しいものです。
娘:ところでお母さん、何食べてるの?
私:ホテルの朝ご飯からちょっと頂戴してきたの。これ何かしら。フルーツケーキかと思ったんだけど、すごく重くて堅いのよ。美味しいわよ。
娘:あー梨パンだ。黒パンの生地に、柔らかくした干し洋梨やイチジクやプルーンやくるみや、いろいろ混ぜて作るやつ。それ大好き。
娘:今はいい。それより、ずいぶん大きく切ってきたわね〜。そんなに食べて大丈夫なの?
私:平気平気。行動食でカロリー補充しなきゃね。
娘:いつも高山病高山病って言ってるけど、本当は食べ過ぎで気持ち悪くなるんじゃないの?へっへっへ。


 口を開くたびにやかましい娘です。
    

主人:これからどうする?まっすぐ下りるのはもったいないな。

娘:氷河行こう、氷河。
私:賛成!

後編へつづく
    
おまけ・・・地図の講習会を開催なさる方へ、地図製作者より/
コンパスを持てば万事良いと錯覚してしまうK子さんのような例は珍しくありません。講習の際には、コンパスの前に地図の基本である縮尺・等高線・記号類の理解を優先して下さい。一番効果的なのは、ある程度理解が進んだら、都市近郊の農村など安全かつ目標物が豊富な場所で、オリエンテーリング形式の実習をすることです。そのようにして、地図上に表記されたものと現実の地理のイメージが一致するようになってから、コンパスの使用へと進むのが現実的ではないでしょうか。

私たちが滞在したのはサメダンという村。サンモリッツまでは電車かバスで10分程度の所です。静かで雰囲気もよく、とてもいい所でしたが、駅と村落の間に急な坂があり、それだけは登山の帰りに少々憂鬱でした。もっとも、サン・モリッツの坂ほどではありません。

(どんな村か画像で見られます。こちらの地図で「サメダン」をクリックしてみてください)

   

村のメインストリート。この狭い道にも大型の郵便バスが入ってきます

   

スグラフィットの施された家。これはまだかなり新しいもののようです

   

お気に入りの教会の前で。丘の上にぽつんと建っていて、敷地の中の大きな木がいつも風に揺れ、ザワザワと音をたてていました。ここからは村やエンガディンの谷が見渡せます

   

ちょっと村外れに散歩に出ると、こんな風景が広がります。
話は変わりますが、このサメダンの村の近くには、スイスに亡命してきたチベット人のコミュニティがあるそうです。村の中でも、伝統的なチベット服を来たお年寄りを時折見かけました(普通の服装をしている若い人は、日本人とまったく区別がつきません)

    


コルヴァッチュの展望台。文章にもあるように、この日は幸い素晴らしい好天に恵まれました

   

展望台からのピッツ・ムルテル(3433m)。すごい雪庇ですね

   

うしろを向いているのはすっかり目をまわしちゃっている娘。生意気だとこういう目に遭うのです。ほほ……
背景は左からピッツ・ベルニナ(4049.1m)、ピッツ・シェルシェン(3971)、ピッツ・ロゼック(3920)

スルレイ峠にて。右に見える山小屋では簡単な食事などもできるようです。
ところでこの話は1995年のことなのですが、当時のスイスの山小屋食堂などでは、スープのメニューにたいてい"Bouillon mit Ei"(またはConsomme mit Ei)というのがありました。どんなものかと言いますと、熱いコンソメスープに生卵をぽっかりと落としたものです。このスープは私たち日本人にもとてもなじみやすい味で、疲れたときなど非常にいいものでした。
ところが
、その頃からスイスでは卵サルモネラによる食中毒が頻発するようになり、この生卵スープは最近ほとんど見かけなくなってしまったそうです

   

同じくスルレイ峠から。ムルテルからちょっと歩いただけで、ベルニナがこんなに近くなりました

    

峠の分岐点。私たちはここから、氷河の方角目指して歩いていくことになりました

    

     

     

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