沈黙の恐怖 天の巻
目次へ ホームへ
▲前のページへ ▼次のページへ
 別にひとり旅主義というわけではないのだが、筆者がスイスを旅行する場合、だいたい今までの半分以上は単独行だった。

 一人でいると、よくいろいろな人から声をかけられる。とは言っても、相手が鑑賞価値のある若い男性かなんかなら嬉しいのだが、なぜか筆者、高齢者につけ込まれる素質があるらしく、「ねえ、一緒に歩かない?」と声をかけてくれるのは、大体ジイちゃんバアちゃんたちである。なんなんだ?

 最初から脱線しそうになってしまったが、さて、こちらの人たちと一緒に歩いていて感じるのは、西洋は『最初に言葉ありき』の文化なんだなあ、ということに尽きる。様々な場で言われていることでもあり、ここではテツガク的な思索はしないことにするが、とにかく長時間彼らと一緒に並んで歩いていると、結局のところ、会話そのものこそが日本人にとって異文化体験の極みではないかとさえ思えてくる。

「沈黙は犯罪である」

 日本だったら何かのはずみで会話が途切れても、特にヘンな話題の途中でもなければ、場の雰囲気を害することはまずない。ところが、どうも西洋人(この場合主にスイス、ドイツ人)との場合は、会話の途切れがなぜか気まずい雰囲気に直結することがままある。私は外国人で言葉もよくわからないのだから勘弁して、と思うのだが、今までの経験から行くと、なかなかそういうわけにも行かないのだ。

 実際には、西洋人でも自分と同世代の人たちはそこまでキツくないのだが、筆者が愛されてしまう(?)年輩の人たち、つまり昔気質の人たちにとっては、会話を途切らせないということは、人間関係を結ぶときの絶対必要条件であるらしい。山の中であろうが、列車の隣席同士であろうが、彼らと一旦話しはじめるということは、同行中は最後の最後まで彼らと喋り続けることを覚悟しておく必要がある。

 彼らの中には会話が途切れるということをかなり恥じる、あるいは失礼と受け取る人も多い。とは言っても初対面どうし、そうそう話題が続くと言うものではない。途切れそうになる度に何か突破口を見つけては、次から次へと綱渡りのように話を繋いでいくのは、ある段階を越すと拷問に近いような苦痛すら覚える。

 実を言うと、当の西洋人自身も、「途切れぬ会話」には時にプレッシャーを感じることがあるらしい。しかも、初対面の旅人ならまだしも、毎日顔を突き合わせて暮らす夫婦間でそれが深刻だというから、お気の毒様としか言いようがない。ある老婦人は「夫と一緒にいて、お互いが沈黙してしまう瞬間が本当に憎たらしい」と言った。
(家族どうしでも毎日こんな調子でベラベラ喋り続けるのか!)

 黙って一緒にいるだけで嬉しい、楽しい、ほっとする……な〜んていうのは、実はもしかしたら非常に日本人的な感覚なんだろうか?

--この項続く

誰かに写真を撮らせてもらいたいとき、最初にちょっとした世間話をした後でお願いすると、その人の表情がまったく変わってくる。ほんのちょっとしたひと言ふた言で、とりあえず「得体の知れない人」ではなくなったわけだ