牛がいるなら奴もいる
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 都会育ちのM嬢は、はじめてのスイス旅行である。今日は日曜日。ホームステイ先のグリショット家の人びとと一緒にハイキングに出かけた。行き先はグリショット氏の実家にほど近い、美しい高原。ここは『ハイジ』の舞台からもほど近く、M嬢は大満足である。

 青空の下、背後に雪を抱いた山々がどど〜んと聳え、眼下には紺碧の水をたたえる湖。周囲の牧草地では牛がのどかに草を食んでいる。子供たちの歌声にまじって、花から花へと飛び交うミツバチの羽音が風に乗って耳に届く。高山植物が放つ甘い香り。スイスのまきばは想像よりも更に素晴らしいところではないか。このところ何やかんやでお疲れぎみだったM嬢は、すっかりクララの気分になっていた。

「このへんでお弁当にしましょう」
 彼らは青草の上に敷物を広げると、リュックサックからサンドイッチや果物、飲み物などを取り出し、豪華に並べ立てた。ステイ先の主婦・アネッテは、M嬢に干し肉とチーズの挟まった特製サンドイッチを取るように勧める。
「わあ、おいしそう!いただきま〜す」

 ところが……。

 M嬢がサンドイッチに手を出すのとほぼ同時に、ハエさんが1匹、そよ風に乗って飛来してきたのである。
「やだっ!ハエ」

 それから10秒後、彼女は無数のハエに襲われていた。その様子を端から見ていると、さながら原子核と、そのまわりをブンブン周回する電子のようである。電子…いやハエはM嬢のサンドイッチに大変な興味をもっているので、当然スキあらばそれに着地しようとする。
「キャ〜〜〜〜〜ッ!!」
 M嬢はパニックに陥った。なにせ東京近郊の清潔な新興住宅地しか知らないため、こんな大量のハエを見たのははじめてである。必死で手を振り回してサンドイッチをかばおうとするが、ハエはM嬢をバカにするかのように、その手に止まろうとする。顔にまで体当たりして来る。

「どうしたの?」
 ハエの雲の裏側でアネッテが不思議そうな顔をしてM嬢を眺めている。その向こうでは、7歳になる息子のアンディが、父親とともに、手にしたチーズを目の前にかざしてじーっと凝視していた。チーズには数匹のハエがたかっている。アンディは生真面目な口調で言った。
「おとうさん、ハエの口が出たり引っ込んだりしてるよ」
「そうやってチーズを食べているんだ。よく観察しなさい」

 M嬢は失神寸前であった。


 ……スイスでM嬢のような体験をし、パニックに陥った人は相当数いるのではないだろうか。

 牛がたくさんいれば当然ハエもいる、というわけで、スイスでは牧場のようなところはもちろんのこと、街中なども至るところでハエが堂々と幅をきかせている。食事中はもちろん、深夜、就寝中なんかにもヤツは大きな羽音をたてて部屋を飛び回り、本当にうっとうしくてかなわない。それなのに、慣れなのか?一体なんなのか??スイス人はハエの存在を全く気にしていないように見える。

 確かに日本でもハエがぶんぶん飛び交うような時代はあったが、少なくとも筆者が知る範囲では、人々はハエに対してもう少しは神経質だったように思う(ちなみに筆者は牛のいた農村育ちである)。頭の上にハイとり紙が獲物付きでブラ下がってはいても、ハエが直接食品にたかるのは汚いこととされた。ましてや食べ物商売の店なんかで売り物にハエがたかっていようものなら、その店には次第に人が寄りつかなくなる。

 ところが21世紀スイスの大都会・チューリヒでは、全国チェーンの有名デリカテッセンのガラスケースの中にすら、ハエがおすまいになっているのである。
「すみません、それハエがたかっていたんですけど」
「は?」
「そのトリモモはハエがたかっていたので他のに替えて下さい」
「なんで?」

 スイス人はハエを不潔とは思わないのだろうか?これがもし東京だったら苦情殺到どころか、雑誌のネタくらいには充分なるところだ。

 こんなことが重なったため、ある時思いあまって、チーズ屋の店先でヒマそうにしていたおばさんにそのへんを尋ねてみた。ハエは汚いとは思いませんか、気になりませんか?
「そうねえ。これだけ動物がいるんだからハエもいるに決まってるわヨ。いちいち気にしていたらやってられないわね。それに、製造のほうではさすがにハエは入れないから大丈夫よ。そうそう、最近、有機(ビオ BI0)の農業が盛んになったら、とたんにまたハエが増えはじめたのよ。薬とかやたらに使えませんからね」

 そういえば、確かに最近は以前よりもハエが増えたような気がしていたのだが、どうもそれは気のせいではなかったらしい。有機農業か、なるほど。

 ここで筆者の頭の中に新たな謎が生まれた。日本、たとえば筆者の住む地域でも、やはり最近有機農業が盛んになっているはずなのだが、ハエが増えたという話は特に聞かない。……そういえばそういえば、スイスの野菜にはしばしば根元などに虫がついているので、洗う時にはいつも細心の注意を払う。ところが、日本では自然食品店の菜ッ葉ですら、ヨトー虫やナメクジさんがついているのは見た事がない。

 う〜〜〜む。

 スイスのハエに関する疑問は、新たなる疑問へと方向を変えつつあった。

美しいスイスのまきばだが、M嬢のように、予想もしなかったような事態に見舞われることも
(写真と本文は関係ありません。場所は近いけど)

       

写真手配中
スイスにもやっぱりハエたたきというものが存在するが、30年ほど前に誰かが「日本みやげ」で持ち帰ったものが起源だといわれている。用途としてはハエを叩くほか、しばしば女性の武器として男性に対し用いられる。

その昔、スイスで女性に参政権を持たせるか否かということを議論していた1970年代初頭(!)、女性参政権反対派は、布団たたきが大写しになった図柄の新聞広告を出した。「女はこれで充分だ=女にはこれでもくれてやれ」という意味だったらしいが、今では布団たたきどころかハエたたきで男性がしばかれる始末である。いや、実は女性参政権以前からそんな程度か?

ベルンの中心部から市電で10分足らず、住宅地のまっただ中に放牧される牛。ここでは数十頭の肉牛を飼育しているそうだが、日本でこんな町中で牛を飼うのは「臭い」「虫が出る」と言われ、おそらく不可能だろう。
筆者の住む地域(千葉県)にも、つい最近までずいぶん多くの畜産農家があったが、東京のベッドタウン化が進むにつれ、移転したり廃業する家が相次いだ

    

スイス平野部の典型的な農村風景。ちなみにこの時期、6月末頃は畑に「田舎の香水」を投入する時期らしい。写真からニオイが出ないのは幸いである。すごいんだから!

写真手前、畑の背の低い部分は牧草(休耕地)、奥の少し丈の高そうなのがトウモロコシ。ちなみに前の年、ここは小麦畑だった。毎年同じ土に同じ作物を植え続けると、土壌中にその作物にとって有害な物質や病原菌、微生物などが蓄積する。そのため、何年か間を置きながら数種類の作物を輪作するのは、今でもヨーロッパの畑作の基本である。ちなみに、輪作をしてこなかったイタリアのトマト大産地では、病害による収穫量の激減が一時期問題になった。

日本でも、たとえば毎年同じ畑でキャベツばかり作り続ける、あるいはピーマンばかり作り続けるというような「○○の名産地」パターンが多いが、このやり方で安定した収穫を保つため、土壌殺菌剤など大量の薬品を投入することが当たり前のように行われている。あなたの食べている野菜は大丈夫ですか?