| 前世紀最後の夏、チューリヒ空港に降り立った筆者は、そのまま地下の国鉄駅からジュネーヴ行きのインターシティに乗り込んだ。これからベルンに住む友人の家に向かうのである。
時間は夕方6時頃。列車が地下から地上に出ると、相変わらず斜めの光線が北側の窓から差し込み、肌に当たってジリジリする。日照時間のながいこの季節、今くらいが一番暑くてまぶしい時間だ。蒸しブロの日本の気候が体に染み付いている筆者の脳裏に、あの暑さが再びよみがえってきて、疲労感を倍増させる。
列車が高架に差しかかると、眼下にはチューリヒの街が大きく広がった。その向こう、湖のはるかかなたに、山々が少し色濃くなりはじめた陽光を浴びて、雲よりも軽く空に浮かんでいる。
空港を出て10分ほどで列車はチューリヒ中央駅に着き、それまで乗っていた乗客の大半が降りていった。反対に乗り込んできた乗客はごくわずか。ここからはベルンまで1時間半弱のノンストップ運転である。筆者は友人に駅に迎えに来てもらうため、電話をしようと立ち上がった。隣のボックス席に座る老婦人にさりげなく会釈し、座席に残す荷物のことを頼む。
確か以前、食堂車に電話があったのではなかったか、という記憶をたよりに、長い編成の列車内を延々歩いて、やっと食堂車にたどり着いた。折しも食堂車は一杯やろうかという人たちで満員である
係員:お食事ですか?残念ながら、あいにく今の時間は満席です
筆者:いえ、違います。公衆電話を探しているのです
係員:電話ですか?今は携帯電話(Haendy ヘンディあるいはナッテル。携帯電話のこと)があるので、もう随分前から電話はなくなっちゃったんですよ
筆者:ええっ!
係員: Tut mir leid. お気の毒です
これは参った。日本と同じ波はここスイスにも確実に押し寄せていた。しかし観光国家のくせに、携帯電話を使えない外国の観光客はどうしろと言うのだ。友人は今ごろ、筆者から電話が来ると思って、トイレも我慢して待っているに違いない。
ブ然とした顔で、再び長い列車をブチ抜いて歩く筆者の向かいから、検札の車掌さんがやって来た。鼻の下に良く手入れされたヒゲを生やした、いかにもスイス人らしい小さな顔に細身の中年男性である。
筆者:あの、失礼しますが
車掌さん:どうしました?
筆者:この列車には公衆電話はありませんか?
車掌さん:残念ですが、今はもうなくなってしまいました。どちらにおかけですか?
筆者:ベルンに・・・
そこで車掌さん、いきなり妙に格好つけたポーズを取ってにっこり・・・というかニヤリ、フッとほほ笑み、真っ赤な車掌カバンの長い長い肩バンドを手繰り上げ、まるで刀でも抜くように何かをスラリと抜き取った。日本では随分前に絶滅したような、巨大な携帯電話である
車掌さん:これを・お使いなさい。フッ
眉間にタテ皺を3本ほど寄せ、明らかにロマンスグレーを意識した渋い笑みを浮かべる。
筆者:え、いいんですか?
車掌さん:構いません。これは仕事用のもので、こういうためにあるんですヨ。フッ。使い方はおわかりですか?
筆者:いえ、わかりません(実は筆者は日本でもケータイというものを持っていない)
車掌さん:ベルンの局番は031、ピッピッピッと。あとは相手の番号を入れて、そのまま話しなさい。フッ
筆者:ありがとうございます!助かりました
この車掌さん、筆者の通話中にも足の組み具合をちょっと変えてみたり、あごに親指と人さし指を添えてみたりして、大変得意げである。後ろに座っているスイス人のオバさんたちはその様子を見て、吹き出しそうになって下を向いている。おじさん少々やりすぎだワ。というより、完全に乗客のウケを狙っているようだ。車掌さんのもくろみ通り、車内には和やかな空気が漂っていた。
そういえば、大昔筆者がドイツ語の初歩を習っていた、スイス航空の元ステュワードだったスイス人の先生がおっしゃっていたのは……
「僕らスチュワード・スチュワーデス、列車の乗務員、レストランや商店の店員。スイスでは、こういう職業につく人は皆、お客様を楽しませるための俳優として教育を受けるんですよ。みんな自分の仕事を楽しんでいるし、誇りを持ってます」
この車内は、車掌さんにとって花の大舞台なのである。
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