地図製作に携わるものなら誰でも、スイス国土地理院
Bundesamt fuer Landestopographie の地形図は世界で最も美しい地図だということを知っている。美しいだけでなく、地形のディティールの表現も秀逸で、ちょっと慣れれば岩壁の細かい表情や形まで読み取れるようにできているのだ。
(日本の国土地理院地形図は土地利用や植生の状況が細かく表現されていて、いわゆる里山のような場所の表現に優れているが、自然地形情報の視覚化はやっぱりスイスの地形図が一番!)
この素晴らしい地形図はどんなところで作られているのか、ぜひ現場を見てみたい、というわけで、筆者は同僚の榎本氏とともに、1997年秋、ベルン郊外ヴァーベルンのスイス国土地理院を訪れることにした。
筆者たちを案内してくれたのは、衛星画像担当のPerret氏。まず、国土地理院全体についての説明を受ける。
実は、ここで残念なことがひとつ判明。筆者が一番興味を持っていたのは、岩壁表現の作図だったが、私たちが訪問した時期には行われていなかった。ちなみにこの作業は、先端部を三角形に研いだ針でガラスの表面に薬品で作った被膜を削り、版を作るのである。岩肌の陰影は、航空写真だけではなく横から見た写真なども突き合わせ、作図者の勘で「地理的に正しい地形」と「人間が見た目で感じる地形」の折り合いをつけながら画面を作る。
さて、いよいよ製作現場へ。まずは航空写真から作図のベースになる線を起こす部門へ向かう。ステレオスコープを覗かせていただいたりと、ここではまあ、子供の見学気分である。
次に、線版の作図現場。筆者たちも経験してきた「スクライブ」だ。これは、透明なフィルムの表面に敷いたオレンジ色の薄い被膜(スクライブベース)を、様々な太さの針で削り取り、線版を作る作業である。この「スクライブ」作業は、製図ペンやカラス口などのようなインクを使った製図よりも、はるかにシャープな線が得られる。
作業していたMarieさんは私たちとほぼ同年代の女性。なんと言うか、人物の雰囲気も、筆者たちや知り合いの同世代の地図製作者たちと似ている。そういえば、ここスイス国土地理院では、女性の技術者が随分目につく。日本の場合、1990年代後半までは、国土地理院の地図製作を請け負っていた会社はじめ、大手の地図製作会社で地図製作の中枢に携わる女性はゼロだった。その後、女性もだんだんこの分野に進出するようになったが、これはひとえに「モリシタ」さんや、筆者の会社の功績が大きいのではないかと思う。偉いぞウチの大将。
話をもとに戻そう。筆者達はしばらくMarieさんの作業を見学させてもらったが、手許をじーっと見つめられて緊張してしまったのか、彫りそこないをしてしまった。彼女はケースから、赤いフェルトペンのような物を取りだし、私たちに見せる。
「これ、日本製」
「あーっ、『きもと』のオペークペンっ!!」(ハミ出し部分などを埋めるペン。他にロットリングなども使う)
用具は日本でいつも私たちが使っているものと、全く同じものである。同じ仕事で同じ道具。共通項があれば話しやすい。ここで一気に打ち解けた雰囲気になった。
「私たちが日本で使っているスクライブマシンはベルン製で、あなたの物と全く同じよ」
「へーっ、でもそうよね。多分これ、スイスでしか作っていないと思う」
「針はどのくらいの頻度で研いでる?」
「…………1週間に1度くらい」(これは相当モノグサの部類に入る)
「日本ではコンピュータ化が進んで、ウチの会社ではスクライブは最近もうほとんど使わなくなってしまったのよね。こちらも今はどんどんそうなっているけれど、どうなの?」
「こっちもそう。私もそのうち、スクライブを離れてマウスを持つようになるみたいよ。でも、やっぱり細かい部分は手作業の方がずっと、楽にきれいにできるのよね」
「やっぱりそうだよね。ところでこれ、ここまで彫るのにどのくらいかかったの?」
「うーん、これはもう終わり近いから、3ヶ月かな」
「えっ!そんなに時間かけていいの?」
「なぜ?日本ではどうなの?」
「うーん、日本の国土地理院の地形図を作図する会社を見学したときに聞いた作業時間は、確かもっとずっと早かったような気がする。まあ描画要素そのものもスイスより少ないけど。1日に何時間作業している?」
「8時間」
「えーっ、それはうらやましい。納期が迫って、徹夜とかはしないの?」
「まさかー!」
(注・後でわかったが、この余裕はやっぱり役所だからだった。Hallwagで地図製作者として働いていた知人に聞いてみたら、民間ではやはり日本の地図製作現場と同じような働き方をしている)
その後もしばらくスクライブ作業を横から見せていただいた後、次に地形レリーフ描画のアトリエへ。ここもまた、一番見学したかった部門のひとつである。
地形レリーフ専門家Ehrlich氏は、私たち見学者が部屋に入ってきても、こちらに目もくれず、自分の作業に延々没頭し続ける。「私は職人気質の塊である」というオーラが全身から発揮されていて、思わずperret氏に、側に近づいてもいいのか、と尋ねてしまった。構わないらしい…
Ehrlich氏はしばらくそのままエアブラシを使い続けていたが、やがて、先端部のチップの太さを替えるために手を止めた。ここで彼は開口一番、何を言うかと思ったら
「日本から来たの?地図作っているの?もしも僕が日本に行ったら、見に行ってもいい?」
唐突な人である。いかにもプロフェッショナルである。ここから、氏は一気に自分の仕事の説明を始めた。
「今まではここのおおまかな陰影を、噴出幅の大きいエアブラシでばーっと描いたの。今度は細いブラシに交換して、細かい部分を描く」
Ehrlich氏は話しながら、交換したエアブラシの先端部の調子を試すために、その辺の紙にブシュブシュとインクを噴出する。どうもブラシの調子が悪いらしい。たぶん後でハナの穴が真っ黒になりそうだ。
「あの、お描きになっている画面に近寄って見ても良いですか?」
「どうぞ」
遠くから見てもよくわからなかったが、地形レリーフは等高線を薄く印刷したフィルムの上に描かれていた。画面に横たわっているのは、どうやらアレッチ氷河の一部である。まだ描画の初期段階のようだったが、岩の斜面と氷河の接点の質感の違いが、既に良く出ている。ほとんど芸術作品である。
「あの、こんなことをお聞きしてもよいでしょうか……もしも失敗するようなことがあったら、修正はできるんですか」 ← (接続法第三式使用)
「修正?簡単だよ」
Ehrlich氏は消しゴムを手に取って、画面の隅をちょろちょろっと消して見せた。なるほど、フィルムに薄くインクが載っているだけだから、簡単に消えるのである。
「やっとブラシの詰まりが直った。描くから見てて」
プロの仕事は、見ているだけでも本当に勉強になる。筆者もこれまで、必要に迫られて自分で地形レリーフを描くことがあったが、どうも思うようにいかなくて困っていた。しかし、作業を見せていただいている間に、かなり得るものがあった。作業の合間にEhrlich氏は話す。
「最近はコンピュータ画像がもてはやされているけれど、やっぱり手が一番だね。例えば、数値画像では、設定した光の入射方向と山脈の流れの方向が一致してしまうと、山脈が消滅しちゃうじゃないか。それに、地形全体を理解するうえで妨げになるような、変な陰影が現れることもあるし。手ならそんなことはない。地図の目的っていうのはそもそも、それを見て、地形を把握することにあるのであって、いくら物理的に完璧に正確って言ったって、あんな分かりにくいもの見せられたくはないね」
「このお仕事は、なくならないと思いますか?」
「絶対なくならない」
「Ehrlichさんは、何年くらいこの仕事の修業をしましたか?」
「ここに入ってから、まず、地図製作者としてのすべての技能を一通り覚えるのに4年、その後、自分はこれ(レリーフ描画)に特別興味があったので、更にそれで4年」
1時間ほど後、筆者たちがアトリエを辞去する際に、Ehrlich氏は引き出しから紙を数枚取りだし、名刺とともに渡してくれた。紙には等高線がうっすらと印刷してある。
「これに、鉛筆でいいからレリーフを描いて、私のところに送りなさい。見てあげるから」
……しかしその後、日常の細々した仕事に追われる筆者は、一度もそれに手をつけることなく今日まで来てしまった。お心遣いに対し、大変申し訳ありません…と思いつつ、あのマイペースで天才肌の氏は、筆者達のことなどコロッと忘れて、今日も黙々と作業しているに違いない、とも思うのである。
次は、印刷工房。こちらでは、また別のタイプの職人気質が蔓延している。「工房」という言葉がぴったりの、明るい職場である。ここであの、紙幣にも負けるとも劣らない、精巧な印刷がなされているのだ。
さて、スイス国土地理院の地図は、基本的に6色が使用されている。
・黒(スミ):文字、道路や家屋などの線、岩壁、一部の等高線など
・茶:等高線
・緑:植生
・青:岸線、氷河の等高線やクレバスなど
・ブルーグレー:地形レリーフ
・黄:わかりにくいが、地形レリーフの光の当たる面にうっすらと使い、地図の色合いに明るさを持たせる
しかも、これらの6色のうち、緑と青は線版とアミ版に分けて刷るので、事実上の8色刷りだ。また、登山専用地図など、図葉によってはそれ以上に多色遣いのものもある。これをオフセットで大量に刷るのだから、ただごとではない。ちなみに、ここの印刷機が1時間に刷る枚数は最大8000枚。実際にはもっとゆっくり(5000枚/h程度)刷るそうだ。
職人さん(お名前を失念してしまった)は言う。
「いや、ウチの地図製版技術は間違いなく世界最高だと思います。製版だけでなく、全ての技術においてかな。紙もいろいろテストして、良いものを使っているから、何千回折り曲げたってなかなか破れませんよ」
半日ほどの見学を終えて、スイス国土地理院を辞去する際に、Perretさんは言った。
「とにかく、私たちの仕事は世界一だと信じています。あなたたちはまだお若いから、ぜひ高い技術を持つように頑張って下さい。もしもあなたたちが知りたいこと、私たちに教えられることがあったら、きっとお助けします」
自分たちの仕事への絶対的な自信と、若い同業者に対する愛情を感じる言葉だった。本当によいものを作るようになるには時間はまだまだかかるかもしれないが、筆者たちもせめて、少しでもいいから彼らに近づきたいと思うのである。
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