美術館から眺めたスイス
パウル・クレー・センターのよもやま
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 ナナコさん(仮名)は、スイスに住んで既に30年以上になる日本女性である。東京の美術大学を卒業してデザイン関係の仕事を経験している彼女は、スイスでも独自の創作活動を続けているが、友人から声をかけられたのを契機に、2005年6月にベルン近郊にオープンした美術館、パウル・クレー・センターでボランティアとして働くことになった。

 美術館で働くというのはかなり面白そうである。しかもパウル・クレー・センターといえば話題のスポット。そんなわけで、ナナコさんの日常について早速尋ねてみた。


筆者:まず、どういう理由でここでボランティアをすることになったんですか?
ナナコさん:まあ、成り行きとでも言いましょうか……ただ、いつも家にこもって何か作っているだけというのもつまらないので、外でちょっと何かしたかったという気持ちがありました。いろいろな人に出会えそうで、なかなか魅力的な仕事だな、と思って
筆者:この美術館が開館して4ヶ月経ちましたが、日本人の見学者は結構来ましたか?(注:このインタビューは2005年10月)

ナナコさん:そうですね、1日に数人程度で、思ったほどでもないかなあ、という感じです。この美術館はベルンの街からも近くて、来やすい場所にあるんですけど、まだあまり知られていないのかもしれませんね。そう、日本人といえば、見学者じゃなくて、日本人のクレーの専門家がここでひとり研究員として働いています

筆者:クレーは日本でも非常に人気のある画家ですが、この美術館の建物そのものも素敵ですね
ナナコさん:そうですね、ここを設計したレンツォ・ピアノ……この人はイタリア人なんですけど、この方のファンは多いですね。クレーではなく、建築そのものを見に来る人も多いですよ。
そういえばつい先日の話なんですけど、写真撮影禁止の展示室でこっそり写真を撮っていた男性……あれはスイス人かしら……がいたんですよ。注意したら「絵じゃなくて建物の構造を撮っているので」とか言いわけしてました。その人は確かに建物の構造を撮影していましたけど、やっぱり撮影禁止は規則なので、ちょっと気の毒でしたね
筆者:規則といえば、私が行ったときにはミュージアムショップの前の通路を、犬を連れて堂々と散歩(?)しているご婦人がいました。それも犬禁止のマークの真ん前です
ナナコさん:あらあら、まったく!スイス人って結構お行儀が悪いところがあるんですよ。日本人の夢を裏切って申し訳ないんですけど(笑)
筆者:そうなんですか?日本では「スイス人は非常に礼儀正しい」が一般的なイメージですけど。
たとえば、日本の美術館は作品を展示するとき、作品の前に進入禁止のラインを設けて、そこから先は絵に近づけないようになっているのが普通ですが、ヨーロッパの美術館ではそういうのはあまり見かけません。ここもやはり自由です。これはやはりマナーの良さがあるからだと思うのですが
ナナコさん:そういえば日本の美術館って、必ず絵に近寄れないようになっていますね!なんであんな事しなければいけないのかしら……特にクレーの作品なんて、思いきり寄って行って、それこそ鼻先をくっつけるようにして凝視すると、意外な素材を使っているのがわかったりして面白いんですよ
筆者:日本の場合、作品に触ってしまったりする人がいるから規制を設けているのかなとも思ったのですが……
ナナコさん:もちろんこっちだって作品に触るような人はいます。むしろ、日本では考えられないようなお行儀の悪い人が一杯いますよ!でも、こちらの美術館では、あらかじめ絵の前に線を引っ張ってお客を締め出すような真似はしれませんね
筆者:それはやはり日本と欧州の文化の違いですか?
ナナコさん:……うーん、それはちょっと考え過ぎでしょう。日本人はすぐに文化の違いなんて言って真剣に考えてしまうんですが、もっと単純な事なんじゃないでしょうか。
日本は人が多すぎるから、最初から規制してしまわないと収集がつかなくなるとか、大体そんな所じゃないかと思いますよ。考えてみれば、日本でちょっと大きな展覧会があると、いつも何万人とか、大変な人でしょう
★ ★ ★
筆者:ここで働いていて楽しいと思うことは何ですか?
ナナコさん:やっぱり人との出会いが面白いですね。本当にいろいろな方がここを訪れます。
たとえば、非常に印象的なアメリカ人の若い男性がいました。その方はクレーの絵を見るのが本当に大好きで仕方がないと言って、ここに3日間も通い詰めて、幸せそうにしてましたね。その男性はなんとかしてクレーの絵を自分で持ちたくて、一生懸命お金を貯めて、何年か前についに1枚購入することができたそうです。そんな話も嬉しそうにしてくれましたね
筆者:他に記憶に残った方は?
ナナコさん:腹立たしいこともありました。そうですね……ドイツ語を使うお客さんが多く、ドイツ語で質問に答える機会が多いんです。そういう時はスイス方言ではなく、標準ドイツ語(ホーホドイッチュ)を使います。ところがある日、その時はインフォメーションをやっていたんですが、私に何か尋ねたお婆さんがいきなり大声で怒鳴りつけてきたんです。「ここはベルンなんだから、ベルンドイツ語(バーンドゥッチュ)で話しなさい!誰かベルンドイツ語の人はいないのッ!?」ってね。その時は私もさすがに腹が立ちました
筆者:そういう事はよくあるんですか?
ナナコさん:ドイツなんかだと時々「外国人の汚いドイツ語なんか聞くと耳が汚れる」みたいな事を言う人もいますけどね。スイスでは滅多にありませんが……
筆者:ナナコさんは美術大学も出ていらして、美術の知識は豊富だと思うんですが、専門的なことを尋ねてくる人はいますか?
ナナコさん:いいえ。だいたいここに来るような人は、最初から人に聞く必要もないくらい良くクレーの事を知っている人か、そうでなければ単純に絵を楽しみに来る方でしょう
筆者:ちょっと残念ですね
ナナコさん:私だってクレーを専門に勉強したわけじゃないから、ある程度以上のことはお答えできるかどうかわかりませんけど……でも「トイレはどこですか?」ばかり続くのはつまらないですね。
あ、そうだそうだ、「これからイタリアに行きたいんですが、列車の時間を教えて下さい」なんて聞かれた事もありました。これはさすがに困った!
筆者:そんな事聞く人もいるんですか?
ナナコさん:さすがに同僚も誰もそんなの知らないので、仕方がないから「そちらに自由に使えるパソコンがありますから、ご自分で調べられますよ」と答えましたけどね。そうしたらパソコンはパソコンで、近所の親子連れが一日中占領して遊んでるし……まあ、本当にいろいろな人がいるなあーって思います。話が脱線しちゃいましたね
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パウル・クレー・センター外観
筆者:話をクレーに戻します。クレーの絵には本当に熱烈なファンが多いですが、ナナコさんもクレーは当然お好きですか?
ナナコさん:ええ、もちろんです。もっとも、実は若いころはそれほどクレーに興味がなかったんですよ。
クレーの絵は押しつけがましい所が全くなくて、長年にわたって見ているうちに、じわじわと心の中に入ってきて「あら、これはいい絵だわ」と思わせるような所がありますね。ただ、晩年の絵は少し苦手なんです。なんというか……見ていてつらいです。ちょうどその時期の絵をまとめて展示している部分があるんですが、そこにいるとだんだん重苦しい気分になってきます。同僚たちも同じような事を言いますね
筆者:そういえば素描一つ取っても、クレーの最後の方の作品は一種異様な世界を感じますね。ピカソの晩年なんかは子供のような天真爛漫さがありますが、クレーのは、例えば日本でとても人気のある天使シリーズなんかがそうですが、シンプルな線が一見天真爛漫に見せますけど、やっぱりそうじゃないんです
ナナコさん:ピカソだって、やっぱり気力が一番みなぎっている頃の絵が一番ですよ。作家というのは誰だって皆そうなんじゃないでしょうか。でも、本当にクレーの最後の頃の絵は異様に思えますね
筆者:ところで、また話が変わります。今はどこの美術館でも、子供向けの様々なプログラムが充実してきていますが、ここでもそうですね。子供のワークショップ専用室も常設されています
ナナコさん:ご覧になりましたか?面白いですよ。ちょっと興味深いのが、こちらの人は、もう子供のうちからクレーみたいな色遣いをさらっとやってのけるんです。日本人がああいう色を出そうとすると、かなり意図的にやらないといけませんよね。ところが、こっちの人は最初からああいう色が体の中にインプットされているみたいです
筆者:そういえば以前、イギリス人から「日本人は浮世絵みたいな色やグラデーションを自然に出せてうらやましい」というようなことを言われたことがあります。どうも生まれ育った環境と色彩感覚は絶対切り離せないみたいですね。それにしても、その辺の子供がクレーみたいな色でお絵書きするとはちょっと嫉妬しますね!
ナナコさん:お互いにないものねだりでしょう。自分に出来ないことはなんでもうらやましいんです。きっと
筆者:そもそも絵の具など、画材そのものの色が日本とこちらでは結構違います。これは両者の好みや伝統的な顔料の違いなどが反映されてそうなっていると思うんですが、たとえばカランダッシュ(スイスの画材・筆記具メーカー)の色鉛筆なんて、日本のとはずいぶん発色が違います。そんなのも関係ありますね
ナナコさん:最初はそう思ったんですけど、やっぱりあまり関係ないような気がしますね。これは完全に、生まれたときから親しんでいる自然の色の影響でしょう。こちらは湿度が低くて、太陽の角度も低くて斜めの光線がわーっと差し込んで来て、日本と物や色の見え方が全く違います。さっきあなたが言った浮世絵のグラデーションなんていうのは、日本の湿度が生み出した空間表現じゃないかしら
※追記
このインタヴューから2か
月後にナナコさんと再会したのだが、その際「ずっとクレーの絵を見ているうちにだんだん考えが変わってきたので、色に関する意見撤回!」とおっしゃっている
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スイスの色と光、形
日本の色と光、形
筆者:またまた話が変わります。レンツォ・ピアノ設計のこの建物は、周囲の地形と風景にマッチしている……というより、ほとんど一体化していて、なかなか特徴的ですね
ナナコさん:それが、デザインは素敵なんですが、ひとつ困ったことがあるんです。彼は館内にインフォメーション用の案内板などを設置するのが嫌いらしいんです。しかもここはちょっとわかりにくい構造をしていますから、地下の展示室に気づかない人や、中で迷ってしまう人がかなりいるんです
筆者:そういえば、関西空港もピアノさんの設計なんですが、開港当初やはり案内板が少ないことが問題になったそうです。仕方がないので関空サイドで手書きの立て看板などを設置したら、それがまた設計者の気に障ってブーイングが来た、なんて話も聞きました
ナナコさん:美術館なら迷っても困ることはありませんけど、空港はさすがに困るでしょうね。でも手書きの立て看板はむごい!どういうモノが立っていたのか、なんか想像がつきます(笑)。
案内板のデザインというのは、建物全体の印象を決定づけるものですから、神経質になるのは当然でしょうね。それだったら最初から自分で総合的にデザインすべきなのに、あまりその方面に意識がないのか、あるいは不得意なのかもしれませんね。
でも、何度も言いますけれど、建物のデザインそのものは本当に素敵でしょう?これだけを見に来る人も本当に沢山いるんですよ
筆者:そういえば、スイスは他にも見る価値のある建築物が意外にありますね。たとえば日本で友人に教わったんですが、ペーター・ズントーというスイス人の建築家がいまして、私が良く立ち回るグラウビュンデン州あたりには彼の作品が沢山あります。かなりヘンピな場所でも、わざわざ日本から見に来る人も結構いるらしいですね
ナナコさん:そうそう、コルジュビエだけじゃありませんよ。2002年に開かれたスイス・エクスポなんて、本当にスイスの建築デザインのサンプルみたいでした。あと、ひと頃話題になったのはドルナッハにあるシュタイナー学校の建築群、これは変わってます。そんなのもうちの美術館の資料室で調べられるんじゃないかしら
筆者:長くなりましたが、最後にこれからスイスを訪れる日本の方に何かひと言お願いします
ナナコさん:そうですね……クレー、そして建築を見るのが好きな方はもちろんですが、単に美術館を訪れるのが好きという方も非常に楽しめる所です。カフェテリアや隣接のレストラン、それにミュージアムショップも充実していますから、ぜひ1度いらっしゃって下さい。グリンデルワルトあたりからも気楽に来られる距離ですよ
筆者:どうもありがとうございました
インフォメーション:
パウル・クレー・センター
Zentrum Paul Klee

行き方
ベルン駅および旧市街中心部から12番のバスで約10分、終点下車。
旧市街から景色の良い徒歩コースも設定されている。所要時間約30分

開館時間:
展示/午前10時から午後5時まで、木曜のみ午後9時まで
カフェとショップ/午前午前9時から午後6時まで、木曜のみ午後9時まで
月曜休館

入館料(大人):
常設展のみ…14スイスフラン
常設展と企画展…16スイスフラン
家族割引、高齢者割引あり

子供ミュージアム、オーディトリウム(音楽ホール)での催しやその他施設の営業詳細、年間休館日、大人以外の料金などについては
公式ホームページ 参照


世間話的略歴
パウル・クレー Paul Klee
(1879〜1940)
スイス、ベルン近郊ミュンヘンブフゼー生まれ。ドイツ国籍。

音楽家の両親のもと、
天才音楽少年として人生のスタートを切る。14歳にしてベルン音楽協会オーケストラのヴァイオリン奏者を勤めたりもしたが、さんざん迷った末にもうひとつの夢・絵画に転向する。

1900年からミュンヘン美術アカデミーのフランツ・フォン・シュトゥックのクラスで
学ぶが、教育内容に嫌気がさして学校に早々に見切りをつけ、ドイツ語圏の人間の常でイタリアに遊学、やがて故郷に戻る。美術アカデミーの同期にはカンディンスキーもいたが、やはりクレー同様早くにアカデミーを捨てている(ただしその頃はお互い知り合いの関係ではなかったらしい)。

当時のミュンヘンは従来の芸術の枠を越えようとする、新しい芸術運動が盛んに起こっていたが、内容的にはやや疑問符がつくものでもあった。当時のミュンヘン芸術をとりまく雰囲気は、トーマス・マンの短編『神の剣』によく描写されており、作中に登場する出世画家とその絵「マドンナ」は、フォン・シュトゥックと、彼の作品「罪」(ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク蔵)をイメージしたといわれる。

画家・クレーの駆け出し時代は絵では全く食べていけなかった。そのため、ピアニストだった妻・リリーの収入を頼り、クレーは家庭で「主夫」として暮らす日々がしばらく続く。現在美術館に展示されているちょっと興味深い指人形の数々は、当時のクレーが小さい息子と遊ぶために自作したものだ。

そんな彼も1914年のチュニジア旅行(チュニジア体験)以後、いよいよ独自の絵画世界を炸裂させはじめる。1921年からはバウハウスの講師として招かれ、そこでグロピウスら錚々たる顔ぶれと共に実り多い10年あまりを過ごす。……その辺の事はどこでも知ることができるのでこの場では完全割愛するが、あまり知られていないけれども興味深い事実をひとつ。この時期のクレーは、同僚のカンディンスキー達と一緒に、今でも美術学校の連中あたりが良くやるようなおバカ写真を何枚も撮っている。わざと変なポーズを取る、歴史上の偉人になりきってみる、パロディー化した作品と戯れる……。こういうアホはみなぎる創作意欲と過剰な自意識のはみ出し部分で、クリエイターなる人種は元気な時期にしばしばこの種の事をやらかすものだが、まさかこんな大物たちまでそんな真似をするとは思わなかった。ちょっと嬉しいではないか。

やがて1933年、ナチがドイツの政権を取ったことで彼らの時代は終り、クレーもスイスへ逃げることになる。やがてドイツでクレーの作品は「退廃芸術」として押収され、公共の美術館から姿を消した。その中の一部はあまりにも有名な「退廃芸術展」で激しい攻撃を受ける。クレーはナチが最も憎んだ芸術家のひとりだった。

スイス帰還後の1935年、クレーは皮膚硬化症という難病を発病し、一時は制作もままならない状態になるが、死の直前、再び精力的に作品に取り組むようになる。その頃のクレーが住んだ質素なアパートは、ベルン市内とパウル・クレー・センターを結ぶ散歩道のそばに今も建っている。クレーは晩年スイス国籍を申請するが、ついに取得はかなわなかった

パウル・クレー
ベルンはさすがにクレーの故郷だけあって、今でもクレーを直接知っているという人に出会うことができる。たとえばお父上がしばしばクレーと弦楽合奏をしていたという音楽家のKさん。当時まだ幼かったKさんにとって、クレーはなんだか奇妙な怖い人という印象が強く残っているという
おスイス
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12. Dez. 2005
Illustration by TUBE graphics