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スイスで幽霊を見る
 突然ですが、幽霊を見たことがありますか?

 筆者は昔からそのテのものには全く縁がなかった。縁がないだけでなく、深夜の山中や墓地などを歩かされても、全く何も感じないというクチだった。あのときまでは……。

 それは数年前のこと、場所はチューリヒから電車で20分ほど南下した町にあるホテルT.。ここは交通至便の上に安いので、日本人の利用もかなり多い。これをお読みのリピーターの方の中には「あそこか!」と、ピンと来た方もいらっしゃるだろう。

 当時そのホテルは、19世紀末製とおぼしき建物をつぎはぎ修理で無理やり保たせて使っている様子が見え見えだった。筆者の泊まった部屋はかなり広く、窓の外には大きな柳の木越しにチューリヒ湖が望めたが、ベッドに仰向けになると、みじめに塗装がハゲちょろけた天井の唐草模様が目に入り、近所の部屋の騒ぎ声がすばらしい音響効果で聞こえてくる。完璧な安ホテルである。

 深夜……。

 ベッドのそばの床がきしる音で、筆者は目を覚ました。
「?」
 静かに押し殺すような、ギシツ、ギシッという音が、部屋の中をゆっくり移動していく。次の瞬間筆者は猛烈な恐怖に襲われた。
「ひええええっ、泥棒だ!」(←心の中で)

 この時点では筆者はなんの疑いもなく、音の発生源を、部屋に進入してきた泥棒だと思っていた。そのホテルはまた、部屋のドアや窓枠の建て付けも非常に悪かった。

 目覚めていることを悟られないようにと思いながらも、必死で薄目を開けた筆者が見たのは、カーテン越しに入ってくる街灯の光に映し出された、大柄な男(?)の黒々としたシルエットだった。
「ひえええええええええ!やっぱり(泥棒)!!」

 ベッドの中で完全硬直状態に陥った筆者。しかしながら目だけは黒い人影を追っていく。彼は相変わらず部屋の中をゆっくりと歩き回り、確かに何かを探しているような動作もしていたが、暗くて顔の造作や着ているものなどのディティールは把握できなかった。やがて数分後、人影は歩調を変えてドアの方向にスタスタと歩き出した。
「やったー!出ていくんだ、助かった」

 そこで安堵した筆者が見たものは………

 一瞬のうちに空中に凝縮して黒い靄の塊になった人影と、それがドアを突き抜けて行くという、明らかにこの世のものではない光景であった。

 ・・・・・・・・・・・・・・・

 この話は後日、スイスの知人たちの間でもおおいに話題になった。友人の1人は私に尋ねた。
「そのホテルに犬か猫はいた?」

 ホテルT.には行儀はかなり悪いが愛想はいい、お調子者の犬がいた。

「じゃあその幽霊は悪い幽霊じゃないね。動物のいる家には悪い幽霊は住まないのよ」

「ふーん、スイスではみんなそう言うの?」

「うん。だから心配ないわヨ」

「じゃあ、家に悪い幽霊が出るようなときはどうするの?」

「う〜ん、だいたい悪い幽霊はその土地から家に入ってくるって言って、床下に金属板を張ったりとか、家に細工をして防ぐことはよくあるわね。そもそも家を建てる前に、"この土地ではこの方角にドアを配置したらダメ、寝室はこちら…" とか調べたりするのよ。東洋の『風水』とまったく同じよ。あと、祈祷してもらったり。もちろんそういうのを気にするかどうかの話だけど」

 スイスにも幽霊にまつわる話や迷信がいろいろあるというのは知っていたが、「家相」まであるとは初耳だった。

 それにしても、あれは本当に幽霊だったんだろうか?ちなみにあれ以来、筆者はそれらしき物を2度と見ていない。泥棒だとしたら、それはそれで怖いけど。いずれにしてもホテルT.は、後にも先にもそれきりしか利用したことがない……
      

おまけ:
 この出来事からしばらく後、私の話は「チューリヒのホテルで幽霊を見た」から「エンガディンのホテルで幽霊に首を絞められて、首にこーんな跡がついていた!」という方向に進化を遂げて仲間うちを1周していた。スイス人は意外にそういうところがある。
   

    空白

迷信といえば、スイス人やドイツ人は「満月」を忌むところがあるようだ。例えば別れ際に「今日は満月だから気をつけてね」と言われることがよくある。筆者の知人は隣人に貸した車をぶつけられ、「満月だったから」と言いわけされた。
満月は人の神経に作用し、興奮などをもたらせて危険なのだと言うが……
(
写真は本文と全然関係ないベリンツォーナにて)
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